初めての土地の、私のことを誰も知らない、チェーン店でもないカフェにきて、乳製品も砂糖もしっかり入っているであろう、でもすごくすごく美味しいケーキと一緒にコーヒーを飲んでいるいと、なんだか、昨日までの自分が遥か遠くに行ってしまったような。

ニセコで、ふと楽しいことってなんだろうって思った。福島ではまだ大変な状態が続いていて、日本ももう、どうなるんだろうという状況の中にいて、でも私はそことは全く関係のない青空のしたで音楽を聴いてワインを飲んでいた。違和感があった。

選挙を経て、種市を経て、なんとかしたいと、いつのまにか、ものすごくものすごく力んでいた私。
その前は、力まないと決めていたのに。笑顔でと。ただ、全力を尽くそうと。

ニセコの空はとても、非日常だった。そして違和感をもった。現実から遠い場所にいる自分に。自分の心は現実の中にいるのにと。

だけど。 非日常なのに、カフェ、─というよりも喫茶店、クラシックの流れる重厚なお店で、雨の日に鏡を見ているみたいな、日常の中の自分の内側の静かな場所に来てしまうと、なんで違和感を感じず、こんなに現実から遠ざかってしまうのだろう。

なんとかしたいと、力んでいたのが私にとってのリアルでは全くなかったということなんだろうか。緊張せずに、リラックスして、今だけ感じている。これが私の現実なんだろうか。私にとって全然私じゃない場所にいると、ここにいる自分と違う自分になってしまうのだろうか。でも、その自分は、何度も何度も見てきた自分で、自分以外の何者でもないように思いもする。 でも─私じゃないと心の奥で叫んでいる。恥ずかしさと、なのに、とめられない。

私はいつも、この静かな場所にくるとホッとする。自分が自分であることの違和感を感じない場所。 誰に見られても、怖くない、これが私だと思ってもらっても、何にも怖くない。自分と今の感覚だけに集中している時間。

この場所にいながら、この時間を過ごしながら、例えば仕事をすることが、日常の料理や洗濯や掃除や、─をできるようになるのだろうか。排出の先に出会える自分はこれが”いつも”の自分だったりするのだろうか。

雨を眺めている時間や、サウンドオブミュージックを聴いている時間や、90年代初期の江國香織を読んでいる時間は小さい頃の自分とちゃんと繋がっている気がする。あの自分が成長したのが今の自分という感じがちゃんとする。自分が自分であることの違和感のなさ。一生懸命でも、真面目でもなくて、ただ自分であること。

私はいつも、ほとんどの時間、どこに行っているのだろう。 夫と一緒にいる時すらこの時間は訪れない。夫はやっぱり私にとって新しい人で、過去の自分とは繋がらない。弟さえも。
繋がるのは妹と、おばあちゃん。

姉妹というのは不思議だ。 妹と一緒に過ごしたのは、18年間。あと10年経てば、夫と過ごした時間の方が長くなる。でも、妹のようなつながりはきっと生まれない。もちろん夫との繋がりは特別なものだけれど、 守られていた中で生まれた繋がりと、一緒に戦う繋がりは全然違うものなのかな。

一日に一度、雨が降らなくてもこの時間をとるようにしてみようか。

ダライ・ラマも言っていた。一日に一度一人になる時間を持ちなさいと。ただ一人になるのではなく、きっとこういう違和感のない自分として、一人になることが大事なんだ。 きっと。

でも、まだわからないけど。
暇なだけかもしれない。