今日も中毒者。英語とポテトチップスの。炭水化物の中毒者。そして喜びと美しさの。

亀田大介さんの器を初めて使ったのは旦那。小豆玄米の甘酒を入れた。
納豆菌が届いたから、スズマルを浸水。明日蒸して納豆を仕込もう。

ずっと美味しいものが作れない。どれくらいだろう。あの日、野菜ボックスが初めてどどいた日はまだ美味しかった。でも、次の日はもう。惰性の中で作っているとそんな味にしかならない。惰性だからつい油と調味料を増やしてしまう。手を抜いているのが自分でわかっているから、油と調味料で補ってしまう。無意識に。

惰性の理由は、心が他のものに奪われているから。中毒者。ずっと何かに夢中だ。戻ってこれない。かろうじて夜眠っていたけれど、昨日の夜はとうとう眠れなかった。ずっと英語。instagramの中にいた。料理の、できればベジ系の投稿者でできれば写真が綺麗で、できれば言葉も綺麗な人(判断がつく英語力はないのだが)を探したり、訳したり、書いたり。

いや、夢中と書いてしまったらそれは聞こえが良すぎるな。そんなものは集中というものに失礼だ。中毒なのだ、それはある種の怠惰。中毒性の高いものに対して抗わないことは怠惰だ。
ああそうか、私はやっぱり躁鬱の気があるのかもしれないな。

私は基本的に殆どのことができないが、その理由は何かに中毒になっているか、無気力かのどちらかだから。 正直、このまま行けば私は体を壊して死ぬのかもしれない。

マクロビオティックの名誉のためにそう宣言してしまいたい誘惑にかられる時もある。だけど、そうじゃない。マクロビオティックはそもそもそういうものでもないし、そして私は出会っている。vipassanaに。出会っていれば救われるものではない、道を知るのと歩むのは違うのだから。

だけど、心から絶望することはないから、きっとそういう死に方ではない気がする。

時々思う。 素晴らしい人が突然死ぬ。素晴らしい人が事故にあって元の生活には戻れなくなったりする。私にはできない事をしている人が、私よりはるかに優れている人が、そんなことになる。人生とはそういうものなのだ。

そこにはきちんと種があるのだろうか。心の反応以外のことだけれど、現実はすべて心の反映なのならば、素粒子の世界でそうなのであれば。わからない。 突然の死に備える必要があるとツイートに書いてあったな。それでは…肉体があるからだろうか。物質に抗えないからだろうか。

久しぶりに覚醒への光に道を読んだ。ああ。私はなんという愚者で怠惰に埋没しているのだろうか。本当に愚かだ。出会っているのに、道に出会っているのに。メンターにも。なんて恵まれているのだろうか。なのに。 美しいとはなんだろうと、思う。心が揺さぶられる想い。静けさとは平静さとは程遠い心。それは美しい。鮮やかだ。しかし、静寂の中のそれは?  別物なんだろうか。別物なんだろう。

四月は君の嘘をみている。漫画やアニメにここまでのものを表現できるなんて思わなかったな。ちはやふるや、おおきく振りかぶってが限界、というか最高値だと思っていた。アニメ表現の。

単純な感動の中に鮮やかな方の美しさが殴りこんできているようなアニメ。揺さぶられる。眩しい。
そして憧れのような嫉妬心さえ思い出させながら、だけどキラキラしている。


ピアノが弾きたい。