祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

タグ:覚悟

仕事をはじめました。

夕食を作るお仕事です。夕方お宅にうかがって、できるだけ冷蔵庫にあるもので、その日のご飯と、数日分の常備菜を作ります。簡単に言うと夕食メインのお手伝いさん。本当にかわいいお子さんたちがいる家庭です。

昨日はお仕事2日目だったのですが、本当に改めて、仕事って嬉しいし、ありがたいし、背筋が伸びて、いいな。って思いました。

経済的に少し余裕がうまれる安心感も。全く意識してなかったけどやはり抑えてたものはあったようで。
帰り道カフェが目に入ってきて思いました。一人で気が向いた時にお茶をしたり。例えば仕事帰りに。そういう時間をこれからとってもいいのかなって。そう思うとなんだかすごく、嬉しかった。

自分の収入があるという部分でも。自分のお金で、本を買ったりクラス受けたり、セミナーに参加してみたり、自分に投資するときに迷う要素が減る。それはすごくフットワークに差が出てきます。ありがたいです。お金を頂いて仕事ができるって。

人生というのは不思議ですね。
私は、数年前まで先生と呼ばれる仕事や子どもに関わる仕事に全く興味がありませんでした。むしろ、やりたく無い仕事の一つでした。 マクロビオティックに出会って救われて、先生になろうと思ったのも、マクロビオティックの仕事=先生しか思いつかなかったから。しかし組織の中で働き、素晴らしい上司や先輩に出会って、何もかも教えてもらい、育ててもらい、そして自身も店長という立場の中で、スタッフ育成というものの大切さやすごさをしりました。私自身はスタッフを育てるというレベルには到底及びませんでしたが。

本当の教育というのは、相手が自分の手を離れても勝手に育っていけるようにすることだと思います。何を考えるかではなく、どう考えるかを伝えることがそれを可能にしてくれます。私はまさにそれをやってもらい、退職して2年近く経った今も、育てられ続けています。マクロビオティックを学んでいく中でも、素晴らしい先生方に出会い、彼らの覚悟にも触れ、教育という仕事の素晴らしさを感じました。

そして、なぜかこの1年沢山の子ども達に出会って、なぜか好きになってもらえて、触れ合っていく中で、子ども達が大切になりました。 …といっても今までは時々会って遊んだりご飯食べたりするだけ、しかし今回の仕事はその家庭に入ってご飯を作って一緒に食べるし、作ってる時も食べてる時も子供達がたくさん話しかけてくれて本当に数時間だけど、その家族の一員のように過ごします。

そしたら…大人としての責任を果たそうという気持ちに。食という側面だけではなく、大人として影響するということの責任。こんな風に書くと大げさだな、決意とかじゃなく自然とそんな気もちが、湧くというのも違って、自然にすっとそうなる。力むのでも構えるのでもなく。いつのまにか。子どもたちがそうしてくれる。それはとても大きいことです。

子どもってなんてすごいんだろう。こんなに愚かで小さくて弱い私を簡単に、強くあろうとしてくれるなんて。 未来と可能性の塊ってすごい。

少しずつ感じ始めていた、子供たちと関わることに私の役割があるのかなという気持ちがまた少し大きくなりました。

ずっと、子どもは好きだけど自分の子どもを持つことにはピンとこなくて、なんでかなと思いながら、世の中の忙しくて大変なお母さんたちを助けることが私の役割なんじゃないかと思うとすごく自然に思えたり…していました。教育者という気持ちを持っているマクロビオティックの先生に憧れるのと同時に。

仕事が始まったばかりだからこその妙なハイで、こんな風に思ってるだけなんじゃないのと、私そんなに立派な人間か?とも、思います。大それていて恥ずかしい。でも、今だけの感情だったとしてもこの気持は大切な気持ちだと思うから、忘れないようにしたいとも思います。

教育者、そして子供たちと関わる仕事ってこの世で一番大事な仕事ではないでしょうか。だから、やっぱり私、なんて大それたことを、と思うんです。

けど、でも、そこにもし、私の役割があるなら…と思います。
もちろんどうなっていくのかわからない。

そうだな…そう。
どうあっても、いつでも目の前のことを一生懸命やるだけなのに変わりはないんだし、それが一番大事なことだ。

頑張って、生きて行こう。

それだけ。それだけ。





 
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覚悟っていつ決まるんだろう。
今まで生きてきて明確に覚悟を決めたことなんてあっただろうか。
覚悟というのは自分の生き方に対して本気になることだと思う。

私は随分と世の中の多くの人よりも自分の決めたルールが多くそれにしたがって生きていて、それはある種覚悟を決めないと出来ないようなことらしい。しかし明確にそれらをいつ決めたというのは存在していない。

地球環境や人間も動物も含めた生きとし生けるものへの負担になるようなことはしないこと。
世界平和を念頭に置いた消費活動をすること。
例えば年に数回しかエアコンなどを使わないこと、掃除機やテレビやレンジを持っていないこと、洗剤、化粧品、食べ物、あらゆる生活道具、それらの選び方、用い方、使い方。多くの人にとってそこまで出来ないと言われてしまうことをやっている…らしい。

嘘をつかない、殺さない、お酒を飲まない、動物性食品を口にしない。

大げさに覚悟を決めてやったというのは一つもない。結局それが心地よく、自分の生き方に合っていたからなんだろう。だから多分流されて、2年ぶりくらいにお酒を飲んだり、動物性食品を口にしたりした。覚悟ではなかったから。でも結果、それらがやっぱり自分の選択した人生に合わないと実感することになり、今度辞めるときはそれが覚悟というものになるかもしれないと思っていたりもする。流された結果、自分の生き方への動機づけのようなものが強くなったから。

ただ、心地良くないと、そぐわないと思いながらやめることができずにいるものが存在していて、それが私の場合ポテトチップスだ。完全に奴隷で食べたいときに食べれないことは苦痛でしかなく。仕事をしていてストレス過多になった時など、買ってから家までも我慢することが出来ずコンビニを出て食べながら歩いていた。

何度やめようと思っただろう。覚悟できるならしたかったが、出来ないほどに依存していて、決めたところで守ることが出来ない覚悟なんて覚悟ではなく。仕事をやめてからの1年間で、もうこれでやめれそうだと思ったことが何度もあった。その度に友人にやめれたと思う、やめれそうとメールをしたにも関わらず、まだ実現したとは言えない。

依存しているものは、生きてきた中でパターン化されたものの中に入り込んでいて、そのパターンが再現される度に欲求が出てくる。身体はそこまで欲していなくても頭で食べたくなるから、やめられない。こういうものこそ覚悟がいるんだろうと思う。(本当は方法はもうひとつあるんだけど、今日は置いておく)しかしそれは単純に心で決めて出来ることではなかった。そうせざるを得ない環境に自分で追い込むか、追い込まれた時にやっと出来るものなのかな、と。

つい最近、ポテトチップス(を含む一般的なスーパーに売られているお菓子)をやめることを決めた瞬間があって、それは覚悟に近いものだった気がしている。「食で生きていく、どこかに属するのではなく自分の力で」ということに対して本気になったこと、尊敬している人がひとり増えたこと、信頼する人が増えたこと、その人達と本当に対等にものを言える人になろうという気持ちがその瞬間を連れてきた。

同時に気づいたことは、マクロビオティックをはじめてから友人がすごく増えたにも関わらず、”志を同じくした仲間という関係性”ではない付き合いの中では覚悟を決めることは出来なかったのだということ。

だから今後は仲間になりたい。チームに。それはマクロビオティックを実践している友人だけに限ったことではなく、すべての人に対して。本気の付き合いでなければ意味が無いことがすごくわかったから。

人生は短い。だからいつも、一瞬一瞬、迂闊になることなく生きていきたい。そのために出来ることを一つづつ増やしていこう。




 
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