祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

タグ:肉食

最近小説熱とか絵が描きたい熱とか勉強熱とか他にもやりたいことが色々…

勉強熱の一つが原始人食、先住民食、ナチュラルパレオダイエットとも呼ばれるものから派生するもの。

試したいです。 この試したい、というのはクシマクロビオティックの標準食より先住民食が正しそうだから、健康になれそうだから、ではなくて。

長岡式酵素玄米を試したのも同じ理由なのですが、別の角度からのしかも真摯な経験値や研究結果を学ぶことは、マクロビオティックの理解が深まるからです。

物事を俯瞰して多面的にみれて、頭が良い人は存在します。 本当にすごいと思う。 そういう人達は、本だけ読めば、話しだけ聞けば、自分の体で試さなくても色んなことを理解できる。でも私はできません。

もちろん今の自分の知識や陰陽の理解でわかるものは自分の身体で試そうとは思いません。
しかし、断食がそうだったように、頭で理解してた、食べ物に善悪はないというものが、やってみて心からやっとわかったように、先住民食もやってみたらいろんなことがわかりそうだと思っているのです。

特に先住民食は陰陽五行などの、東洋的視点なしで解説されるから、そこがすごく勉強になりそうなんです。こんな風に説明すれば要の部分が伝わりやすいのか、みたいなことが。特に理論派男性に対して。 あ、でもこれは本だけでもできるか。

実は一番気になるのが… 詳しくは知らないのですが神道や仏教などの宗教の世界では動物性をすすめませんよね。 それって、体の健康とは別の部分の食の影響があるのを昔の人はわかってたからではないかと思うんです。そこが体感を通してなにかつかめるかもしれないと。

断食をして立った仮説です。
肉体の健康だけなら先住民食もクシマクロビオティックの標準食も同じ。でもそれ以外の何かがやっぱりある。それに、人口を含めたあらゆる環境要因で、現代は先住民食の実践をみんながすることは不可能で、だから、マクロビオティックがうまれたのではないかと。それを自分の身体で検証したく。

この数年お付き合い以外はほぼベジでやってきてるから、普通食から先住民食に変えてもわからないことが、わかるかも。 と思っています。

まだ先住民食に関係する本を一冊しか読んでいなし、すぐに始めるかどうかはわかりません。でも勉強はしていきたいです。

▨.追記
この記事を書いた直後に、Facebookでこんな記事をみつけました。フィード購読してる方です。
私が自分の体で人体実験して体感してみようとしていることをこの方は知ってるのかもしれないと思いました。本当に多くの情報を知っている方だけれども、食の波動のレベルに関してそこまでの理解は無い方だと思ってたから驚きました。

が、その直後にこちらの記事がアップされて、近くてすごく遠かったとわかりました。
確かにこの方の言うとおりだとは思います。ただ、私が知ろうとしていることは、宗教になる前の段階のこと。仏教ではなく仏陀の教えといえばいいでしょうか。
その時もある場合において、肉食はすすめていなかったはずで、それはどうしてなのかということ。
宗教になった時にはそれは多分都合よく利用されたか、どんどんおかしなミクロ解釈になりただの菜食になって健康とは程遠くなったか…ではないのか…と。
しかし全ては実験しないとわかりません。わかったところでそれは私の答えに過ぎません。
楽しみです。どう感じるのか。




 
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私はこの3ヶ月くらい、人生で初めて休暇をとったと思う。それ以前は無職だったり、学校に行っていなくて、何もしていない、一見休みのような状態でも苦しくて苦しくてしょうがなかった。その期間がどれだけ長くても慣れることはなく、ずっと苦しかった。流れない水が腐るかのように停滞し体も心も腐敗して行くのを、あがきながらもどうすることも出来ず、自分も世界も嫌悪して。

レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。

こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。

──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。

それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。

精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。

私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。

しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。

そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。

マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。

「ノンクレド」

それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。

私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。

主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。

不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。

99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。





 
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先程のTwitterまとめ。この感覚周辺の色んな事を、よく考える。私は基本的に肉を食べないが、肉食の様々な弊害を理解し、いろんな主張をしている人々に対して必ずしも(感覚的な意味で)共感はしない。だけど食事に気を使っていなくても気持ちが通じたりする人がいる。

実家の犬の介護をしている時、この子は自分で食べ物を選ぶことはできないんだなぁと実感した。与えられたものを食べる人生。だけど彼女はとても幸福そうだ。そして多くのものを私達家族に与えてくれた。野生動物だってそう。選べない。なにより人間だって世界中の多くの人がそうであると気づく。それはつまり食べ物というのは人生の本質に直接的には関わらないのではないかということ。

だからといって私は一般的な食事をしようと思うわけではない。 できるだけちゃんと作られたものを食べるしマクロビオティックを勉強して行きたい。そして自分の体を少しでも良くしたいと思う。痛めつけてきた体を癒したいと思う。それは私の選択。

「肉食が環境汚染の主原因になっている」「肉食がたくさんの病気を生んでいる」「チョコレートは児童労働、搾取で成り立っている」「ダウンもウールも食肉も残酷な動物の死によって成り立っている」その他にもたくさん、たくさん。食べ物だけではない。私たちはたくさんの動物と人間を殺しながら生きている。その事実を余りにも多くの人が知らない。だけど同時に”事実”でありながら”真実”ではないとも思う。

牛乳は体にいいと信じて飲み続けている人。それはその人が牛乳と乳製品の多くの害を知らないからだろうか。疑問を持たないという選択の結果ではないだろうか。ほとんどの人が全く知らないわけではない。一度や二度、もしくはそれ以上、あらゆる食べ物、食べ物以外のものでも良くないとされる話を聞いたことがあるはずだ。そして、そんなはずがないと思ったり、食べたいから知りたくないと思ったり、それに対して流される反対意見を鵜呑みにしたりもする。情報が一切届かない人もいるだろう、ただただ信じて自分の体を痛めてしまう人もいるだろう。もしくは子供の体を。でももしそこに、一片のエゴもなく愛情しかなければ、その食べ物は本質的にその子供の人生に影響を与えるだろうか。

では、疑問を持たないことが、自分で知ろうとしないのが悪なのだろうか。害があると知っていても、もしくは弱者からの搾取で成り立っていると知ってても選択する場合もある。それは悪として糾弾されるべきことなのだろうか。

こんなことを考えているといつも思い出すのが小さい頃に読んだキリストの漫画伝記のある描写。罪を犯した女の人がいて、その女を石で打ってもいいかと聞かれたキリストは打ってもいいと答える。しかしその後にこう続ける「その女を石で打てるのは生まれてから一度も罪を犯したことない者だけだ」そして結局その女を石で打てるものは居なかった。 小さい頃はなんとなくキリストが正しいのかなって思ったけど、よく分からなかった。じゃあ人を殺したりいじめたりする人を罰することはできないのかな。もう少し大きくなってからもそんな疑問を持ち、そしてずっと心に残り続けた。

今はその意味を自分なりに解釈することができる。例えばハーゲンダッツを食べている人に、それを食べることはパレスチナ人を虐殺しているのと同じだと糾弾しながらスターバックスのコーヒーを飲んでいる、なんてこと。例えばフォアグラを食べている人に対して批判的な気持ちで心を満たし、その作られ方の残虐性を伝えながらダウンジャケットを着ているなんてこと。そんな人いるわけない?じゃあ反原発を叫びながら、ウールのセーターを着て肉を食べる人はどうだろう。タバコを吸う人を批判しながら、発泡酒を飲んでいる人はどうだろう。

同じ興味の範囲の中なら自分や他人や環境を傷つけない選択をすることは可能かもしれない。でも全てを知っている人はいない。私たちはほとんどのことを知らない。人は自分の知っている範囲のことを、自分の経験からくる思い込みで判断し選択している。だから他人の選択を批判することはできない。キリストの言葉はそういう意味を含んでいるんじゃないだろうか。他人に対して、外の世界に対して何かを要求したり批判することはできないんだと。

私は結局は自分なんだと思う。大切なのは。どこまで行っても自分だけ。自分の心と一瞬一瞬のあり方だけが大切。

そう思っていても、他人を批判する気持ちはしょっちゅう湧いてきたりする。でも、いろんなことが重なってそうしない自分に少しずつ変わっていっていることを体験している。全部自分次第だって、他人のせいにしない、外の出来事のせいにしないと決めた時から、世界は変わっていっているんじゃないかと思う。

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