先程のTwitterまとめ。この感覚周辺の色んな事を、よく考える。私は基本的に肉を食べないが、肉食の様々な弊害を理解し、いろんな主張をしている人々に対して必ずしも(感覚的な意味で)共感はしない。だけど食事に気を使っていなくても気持ちが通じたりする人がいる。

実家の犬の介護をしている時、この子は自分で食べ物を選ぶことはできないんだなぁと実感した。与えられたものを食べる人生。だけど彼女はとても幸福そうだ。そして多くのものを私達家族に与えてくれた。野生動物だってそう。選べない。なにより人間だって世界中の多くの人がそうであると気づく。それはつまり食べ物というのは人生の本質に直接的には関わらないのではないかということ。

だからといって私は一般的な食事をしようと思うわけではない。 できるだけちゃんと作られたものを食べるしマクロビオティックを勉強して行きたい。そして自分の体を少しでも良くしたいと思う。痛めつけてきた体を癒したいと思う。それは私の選択。

「肉食が環境汚染の主原因になっている」「肉食がたくさんの病気を生んでいる」「チョコレートは児童労働、搾取で成り立っている」「ダウンもウールも食肉も残酷な動物の死によって成り立っている」その他にもたくさん、たくさん。食べ物だけではない。私たちはたくさんの動物と人間を殺しながら生きている。その事実を余りにも多くの人が知らない。だけど同時に”事実”でありながら”真実”ではないとも思う。

牛乳は体にいいと信じて飲み続けている人。それはその人が牛乳と乳製品の多くの害を知らないからだろうか。疑問を持たないという選択の結果ではないだろうか。ほとんどの人が全く知らないわけではない。一度や二度、もしくはそれ以上、あらゆる食べ物、食べ物以外のものでも良くないとされる話を聞いたことがあるはずだ。そして、そんなはずがないと思ったり、食べたいから知りたくないと思ったり、それに対して流される反対意見を鵜呑みにしたりもする。情報が一切届かない人もいるだろう、ただただ信じて自分の体を痛めてしまう人もいるだろう。もしくは子供の体を。でももしそこに、一片のエゴもなく愛情しかなければ、その食べ物は本質的にその子供の人生に影響を与えるだろうか。

では、疑問を持たないことが、自分で知ろうとしないのが悪なのだろうか。害があると知っていても、もしくは弱者からの搾取で成り立っていると知ってても選択する場合もある。それは悪として糾弾されるべきことなのだろうか。

こんなことを考えているといつも思い出すのが小さい頃に読んだキリストの漫画伝記のある描写。罪を犯した女の人がいて、その女を石で打ってもいいかと聞かれたキリストは打ってもいいと答える。しかしその後にこう続ける「その女を石で打てるのは生まれてから一度も罪を犯したことない者だけだ」そして結局その女を石で打てるものは居なかった。 小さい頃はなんとなくキリストが正しいのかなって思ったけど、よく分からなかった。じゃあ人を殺したりいじめたりする人を罰することはできないのかな。もう少し大きくなってからもそんな疑問を持ち、そしてずっと心に残り続けた。

今はその意味を自分なりに解釈することができる。例えばハーゲンダッツを食べている人に、それを食べることはパレスチナ人を虐殺しているのと同じだと糾弾しながらスターバックスのコーヒーを飲んでいる、なんてこと。例えばフォアグラを食べている人に対して批判的な気持ちで心を満たし、その作られ方の残虐性を伝えながらダウンジャケットを着ているなんてこと。そんな人いるわけない?じゃあ反原発を叫びながら、ウールのセーターを着て肉を食べる人はどうだろう。タバコを吸う人を批判しながら、発泡酒を飲んでいる人はどうだろう。

同じ興味の範囲の中なら自分や他人や環境を傷つけない選択をすることは可能かもしれない。でも全てを知っている人はいない。私たちはほとんどのことを知らない。人は自分の知っている範囲のことを、自分の経験からくる思い込みで判断し選択している。だから他人の選択を批判することはできない。キリストの言葉はそういう意味を含んでいるんじゃないだろうか。他人に対して、外の世界に対して何かを要求したり批判することはできないんだと。

私は結局は自分なんだと思う。大切なのは。どこまで行っても自分だけ。自分の心と一瞬一瞬のあり方だけが大切。

そう思っていても、他人を批判する気持ちはしょっちゅう湧いてきたりする。でも、いろんなことが重なってそうしない自分に少しずつ変わっていっていることを体験している。全部自分次第だって、他人のせいにしない、外の出来事のせいにしないと決めた時から、世界は変わっていっているんじゃないかと思う。