覚悟っていつ決まるんだろう。
今まで生きてきて明確に覚悟を決めたことなんてあっただろうか。
覚悟というのは自分の生き方に対して本気になることだと思う。

私は随分と世の中の多くの人よりも自分の決めたルールが多くそれにしたがって生きていて、それはある種覚悟を決めないと出来ないようなことらしい。しかし明確にそれらをいつ決めたというのは存在していない。

地球環境や人間も動物も含めた生きとし生けるものへの負担になるようなことはしないこと。
世界平和を念頭に置いた消費活動をすること。
例えば年に数回しかエアコンなどを使わないこと、掃除機やテレビやレンジを持っていないこと、洗剤、化粧品、食べ物、あらゆる生活道具、それらの選び方、用い方、使い方。多くの人にとってそこまで出来ないと言われてしまうことをやっている…らしい。

嘘をつかない、殺さない、お酒を飲まない、動物性食品を口にしない。

大げさに覚悟を決めてやったというのは一つもない。結局それが心地よく、自分の生き方に合っていたからなんだろう。だから多分流されて、2年ぶりくらいにお酒を飲んだり、動物性食品を口にしたりした。覚悟ではなかったから。でも結果、それらがやっぱり自分の選択した人生に合わないと実感することになり、今度辞めるときはそれが覚悟というものになるかもしれないと思っていたりもする。流された結果、自分の生き方への動機づけのようなものが強くなったから。

ただ、心地良くないと、そぐわないと思いながらやめることができずにいるものが存在していて、それが私の場合ポテトチップスだ。完全に奴隷で食べたいときに食べれないことは苦痛でしかなく。仕事をしていてストレス過多になった時など、買ってから家までも我慢することが出来ずコンビニを出て食べながら歩いていた。

何度やめようと思っただろう。覚悟できるならしたかったが、出来ないほどに依存していて、決めたところで守ることが出来ない覚悟なんて覚悟ではなく。仕事をやめてからの1年間で、もうこれでやめれそうだと思ったことが何度もあった。その度に友人にやめれたと思う、やめれそうとメールをしたにも関わらず、まだ実現したとは言えない。

依存しているものは、生きてきた中でパターン化されたものの中に入り込んでいて、そのパターンが再現される度に欲求が出てくる。身体はそこまで欲していなくても頭で食べたくなるから、やめられない。こういうものこそ覚悟がいるんだろうと思う。(本当は方法はもうひとつあるんだけど、今日は置いておく)しかしそれは単純に心で決めて出来ることではなかった。そうせざるを得ない環境に自分で追い込むか、追い込まれた時にやっと出来るものなのかな、と。

つい最近、ポテトチップス(を含む一般的なスーパーに売られているお菓子)をやめることを決めた瞬間があって、それは覚悟に近いものだった気がしている。「食で生きていく、どこかに属するのではなく自分の力で」ということに対して本気になったこと、尊敬している人がひとり増えたこと、信頼する人が増えたこと、その人達と本当に対等にものを言える人になろうという気持ちがその瞬間を連れてきた。

同時に気づいたことは、マクロビオティックをはじめてから友人がすごく増えたにも関わらず、”志を同じくした仲間という関係性”ではない付き合いの中では覚悟を決めることは出来なかったのだということ。

だから今後は仲間になりたい。チームに。それはマクロビオティックを実践している友人だけに限ったことではなく、すべての人に対して。本気の付き合いでなければ意味が無いことがすごくわかったから。

人生は短い。だからいつも、一瞬一瞬、迂闊になることなく生きていきたい。そのために出来ることを一つづつ増やしていこう。