作家と言えば小説家だと長いこと思っていましたが、この10年くらいで自分の手で何かを作って売っている人という認識に変わりました。個展や市でそういった方々を目にする機会が増えていったからだと思います。

私は本当に素直にいとも簡単に、学校教育やテレビなどに影響され、良いと言われているもの、支持されているものが素晴らしく、そうじゃないものを差別する意識を自分の中に育てていた人間です。もちろん若者らしく?ひねくれてもいたので、わかりやすく人気のあるもの、例えばロゴマークのついた服などは嫌悪の対象にしてはいましたが。しかし同時に、そんなものは見たこともないという顔をしながら、学歴コンプレックスに始まり、差別意識に支配されていたのです。

ですから初めて作家さん達とその作品を見たとき、あまり良い印象は持たなかったと記憶しています。「よくこんな素人っぽい商品を」と思ったこともあります。逆に自分の好みにあったもの、完成度の高いものを作る作家さんに出会ったときは心のなかで大絶賛。そして場合によっては自分と比べて落ち込むこともありました。良いと思ったものは称賛し、もしくは落ち込み、そうじゃないものに対しては心のなかでとことん冷たくなる。 もちろん、作品は価格をつけたら商品です。比べられ選ばれ売れていくのだから◯がついたり☓がつくのも当然のことです。「全部いいと思います。全部買います」そんなことありえません。

でもね。だからといって☓だと思った商品だけではなく作った人にまでも、センス無い、好きじゃない、ありえないと否定の気持ちで心を満たしてしまうのはどうでしょう。そんな人正直嫌なんですが。私という人間はそんなやつなのでありました。

しかし最近、反省とともに変化が起こり始めています。ものを作る人達がどんどん進化しているのを目の当たりにすることによって。 私は冷たい人間ですし、いとも簡単に差別する上に面倒くさがりの出不精なので、良くないと思った作家さんは当然としても、好きだと思った作家さんさえ2年、3年ぶりに見に行きます。その「2年ぶり3年ぶり」にこの1年多く遭遇しました。仕事をやめたのをきっかけにそういった場所に足を運ぶ機会が増えたからです。

そしたら。
びっくりするくらい進化している。完成度もバリエーションも。

今まで…作家さんを見ながら感じていた気持ちで一番多くを占めていた中学生のような感情を、具体的に言語化してみるとこうなります。

「私がこの人と同じくらいの時間(経験という意味での)作ることに費やすことが出来ればはるかにもっといいものが作れる。なのに私にはそれをすることができない。自分の思う、そのはるかにいいものと同等のものを作ることができないのであれば私は自分が作ったものを売るということは絶対にしない。だから私には永遠に叶わないことだ」

私は作家になりたいわけではありません。自分の作ったものを売って生活したいとは思いません。だからこんな感情を持つことも不思議といえば不思議なのですが、かつてものを作ることを学んでいたことがそういった感情を生むのでしょうか…? さて、生まれてしまったこの感情。まとめると『やればできるのに』と『あきらめ』です。中学生と評したのはその辺り。

ココでやっと話を戻します。 進化してゆく作家さんたちはその”あきらめ”に対して強烈に揺さぶりをかけてきました。過去、否定で心を満たした自分にも。

自分の思うハードルを超えられなくても、その先に、ずっと先でも、近づいていけるのであれば続けていってもいい、そしてその過程を表に出していっても許されるんだと。許す許さないの話ではないはずなのに私の意識はそうでした。私は自分が他人を否定する人間だからこそ、否定されることをとても恐れていて、────それはやってみようとすら思わない、選択をしたという意識もないまま、なにもしないことを選ぶことにつながっていました。

そう気づいてから否定で心を満たすことはなくなりつつあります。この作品を買おうとは思わない。以上、です。完璧じゃない自分を恥ずかしいと思わなくていいし、完璧じゃなくていいのだから大げさな決意を持って何かを始める必要もないし、やろうと思ったらやればいい。

それがこのブログにつながりました。だから、大げさな決意は伴ってないけれど(ここでは文章として)良くなっていくこと、自分の思うハードルを超えられることを目指していくことが大前提です。
ただし。

スパンはながく。ながーく。