私はこの3ヶ月くらい、人生で初めて休暇をとったと思う。それ以前は無職だったり、学校に行っていなくて、何もしていない、一見休みのような状態でも苦しくて苦しくてしょうがなかった。その期間がどれだけ長くても慣れることはなく、ずっと苦しかった。流れない水が腐るかのように停滞し体も心も腐敗して行くのを、あがきながらもどうすることも出来ず、自分も世界も嫌悪して。
レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。
こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。
──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。
それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。
精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。
私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。
しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。
そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。
マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。
「ノンクレド」
それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。
私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。
主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。
不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。
99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。
レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。
こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。
──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。
それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。
精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。
私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。
しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。
そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。
マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。
「ノンクレド」
それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。
私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。
主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。
不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。
99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。