祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

タグ:中毒

今日も中毒者。英語とポテトチップスの。炭水化物の中毒者。そして喜びと美しさの。

亀田大介さんの器を初めて使ったのは旦那。小豆玄米の甘酒を入れた。
納豆菌が届いたから、スズマルを浸水。明日蒸して納豆を仕込もう。

ずっと美味しいものが作れない。どれくらいだろう。あの日、野菜ボックスが初めてどどいた日はまだ美味しかった。でも、次の日はもう。惰性の中で作っているとそんな味にしかならない。惰性だからつい油と調味料を増やしてしまう。手を抜いているのが自分でわかっているから、油と調味料で補ってしまう。無意識に。

惰性の理由は、心が他のものに奪われているから。中毒者。ずっと何かに夢中だ。戻ってこれない。かろうじて夜眠っていたけれど、昨日の夜はとうとう眠れなかった。ずっと英語。instagramの中にいた。料理の、できればベジ系の投稿者でできれば写真が綺麗で、できれば言葉も綺麗な人(判断がつく英語力はないのだが)を探したり、訳したり、書いたり。

いや、夢中と書いてしまったらそれは聞こえが良すぎるな。そんなものは集中というものに失礼だ。中毒なのだ、それはある種の怠惰。中毒性の高いものに対して抗わないことは怠惰だ。
ああそうか、私はやっぱり躁鬱の気があるのかもしれないな。

私は基本的に殆どのことができないが、その理由は何かに中毒になっているか、無気力かのどちらかだから。 正直、このまま行けば私は体を壊して死ぬのかもしれない。

マクロビオティックの名誉のためにそう宣言してしまいたい誘惑にかられる時もある。だけど、そうじゃない。マクロビオティックはそもそもそういうものでもないし、そして私は出会っている。vipassanaに。出会っていれば救われるものではない、道を知るのと歩むのは違うのだから。

だけど、心から絶望することはないから、きっとそういう死に方ではない気がする。

時々思う。 素晴らしい人が突然死ぬ。素晴らしい人が事故にあって元の生活には戻れなくなったりする。私にはできない事をしている人が、私よりはるかに優れている人が、そんなことになる。人生とはそういうものなのだ。

そこにはきちんと種があるのだろうか。心の反応以外のことだけれど、現実はすべて心の反映なのならば、素粒子の世界でそうなのであれば。わからない。 突然の死に備える必要があるとツイートに書いてあったな。それでは…肉体があるからだろうか。物質に抗えないからだろうか。

久しぶりに覚醒への光に道を読んだ。ああ。私はなんという愚者で怠惰に埋没しているのだろうか。本当に愚かだ。出会っているのに、道に出会っているのに。メンターにも。なんて恵まれているのだろうか。なのに。 美しいとはなんだろうと、思う。心が揺さぶられる想い。静けさとは平静さとは程遠い心。それは美しい。鮮やかだ。しかし、静寂の中のそれは?  別物なんだろうか。別物なんだろう。

四月は君の嘘をみている。漫画やアニメにここまでのものを表現できるなんて思わなかったな。ちはやふるや、おおきく振りかぶってが限界、というか最高値だと思っていた。アニメ表現の。

単純な感動の中に鮮やかな方の美しさが殴りこんできているようなアニメ。揺さぶられる。眩しい。
そして憧れのような嫉妬心さえ思い出させながら、だけどキラキラしている。


ピアノが弾きたい。



 
    このエントリーをはてなブックマークに追加

お菓子を大量に食べていると、気持ち悪くなるし、それだけではなく色んな不調がでてくるし、太っていくし、本当に嫌で。太ると人に会いたくなくなる。それもつらい。食べた直後はもう二度と食べないと心から思うのに少したったらまた食べたくなる。そしてそれが一番嫌だ。そんな自分が。部屋も片付けられない。片付いた状態に慣れてしまったから、片付いてない状態がよけいつらい。でも、どうしても片付けられない。気力がない。ダメな自分と思う。だからもうお菓子は食べたくない、食べたくない、食べたくない。だけどしばらく経つと食べたくなる。嫌だ。

食べたいと思った瞬間から、自分が嫌だという気持は消える。お菓子を買いに行く時はどこかワクワクしているし、買って帰っている時なんて、嬉しい。沢山まだ食べていないお菓子があることが嬉しい。食べている時も。だんだん気持ち悪くなるけど、食べ続ける。食べる快楽は全ての嫌なことから簡単に目をそらすことが出来る。そして眠くなって眠る。気づいたらもう夜で。そのまま眠る。何もしたくない。お菓子だけ食べてアニメでも見ているのがいい。家事ができない。ループの中に入る。


苦しい。
自分が嫌で嫌で、苦しい。 
私は苦しい。お菓子をやめられる自分に本当になれるのか、どうしたって、なれない気がして怖くなる。

私は今まで何度も何度も散々、お菓子がやめられないと話してきた。いろんな人に。多くはマクロ仲間に。そして食に気をつけているからきっと病気にはならないねと言われた時に。そして、必ず一緒に言ってきた。

「まぁでも減ってきてるからいいんですけどね」

そしてさらに付け加えることもある。
昔はお菓子しか食べてなかったと。10年位そうだったと。その時はよく寝たきりになっていたと。でも今は信じられないくらい元気なんですと。

それはつまり、だから今も食べてるけど、自覚してるしコントロールできつつあるからいいんです。という。そんなアピール。自分を守るアピール。わかってるから何も言わないでと。責めないでと。嫌いにならないでと。 

結局私は、お菓子そのものとはまったく向き合っておらず、やめられない自分が嫌だということばかりに囚われている。



本質的なあらゆる教えは、善悪二元論から離れましょうと言っている。
ヴィパッサナーもそう。そして私はヴィパッサナーに出会っている。

なのに私は、苦しいと感じること、嫌だと感じることを悪いことだと思う気持ちから離れられずにいる。むしろヴィパッサナーに出会ってそれが強くなってしまった部分もあった。渇望している状態や嫌悪している状態に気づきやすくなった分。そこに良し悪しがないと説かれるのにもかかわらず。良し悪しのジャッジにどっぷりになってしまった。 
 
どんなものでも、手放すには、まず囚われていると”本当に”自覚することが大切だと思う。
私はさっぱり自覚していない。中毒であることに。私がやめられずに食べ続けているものが、どれだけ身体にダメージを与えているかということも。本当に自覚していたら、こんなにも食べ続けることはない。 
    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ