祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

タグ:マクロビオティック

友人にお弁当を作り始めました。最初の目標は週3回、同じ時間に完成させること。

ずっと、お弁当で何かを始めるときは名前をつけようと思っていて、◯◯屋にしようとぼんやり思っていました。プロジェクト名は水奏屋。主人へのお弁当作りがfacebookへの写真投稿で続けることが出来たように、モチベーションのためと、そして記録のためにブログも開設しました。

身内以外の人にお弁当を作ろうと思った理由は大きく2つあります。

一つは、お金をもらって何かを提供することで生まれる”責任”を負うことでしか得られない経験値が今の私にはすごく必要なことだから。(といっても、とりあえず最初の目標を達成するまではお金は頂かないつもりです)どうしても、主人に作るお弁当だと、集中力を欠いてしまうことがありました。どこかで気が抜けていて、焦がしてしまったり茹で過ぎたりっていうのが起こりやすい。身内以外だと集中しているからそういうことはまず起こらない。点火しているコンロ2つ同時にちゃんと意識を向けられるし、遅れたら届ければいいという安易な方に流れにくいので段取りもしっかりしようとする。

それに主人は(非常にありがたいのですが)基本的になんでも食べるし、残さないし、文句も言わないからだんだん味への追求心が薄れていってしまったりもしたのです。でも友人だとちゃんと美味しいものを作ろうという気持ちで集中して作れます。集中し、工夫もする。その中で発見したことの積み重ねは、今までとは全然違うと思うのです。もちろん今まで主人に作ってきたお弁当もたくさん勉強になったけれど、これからは責任をもって作る形での勉強をしていきたい。

もう一つは、地域のつながりを強くしていくため。これは先日「種市前夜祭トーク」で書いたことに繋がっています。

仲間や友人に美味しいごはんを食べてもらって、もっと元気になってほしい。同じものを食べることでの繋がりって絶対あるからそこも深められたらいいなとも思う。やっぱり美味しいものはみんな好きだし、きれいになれれば嬉しいし、仕事が出来るようになったら嬉しいと思う。だから料理スキルが上がれば上がるほど、マクロビオティックの臨床での知識が増えれば増えるほど、地域の人と仲良くなれるチャンスがあった時にそれが深まりやすいと思うのです。

私の住む街には、月に一回集まった人たちで朝食を作って一緒に食べる会があります。そこに参加していくことが、まずは直接的な地域の人との繋がりの第一歩。だからやっぱり料理スキルと知識は絶対あった方がいい。コミュニケーション力が全然違ってくると思う。野菜も近くの農家さんから直接買うことができるので、その時に直接色んなお話をして、地元の農家さんともつながっていきたいと思っています。

友人が世界平和のためにやっているプロジェクトがあります。それは一日一人10分間マッサージをすること。そしてそういうプロジェクトをやっていることを伝えて、マッサージをする人を増やしていくこと。世界中の人が一日10分でも相手の為を思いマッサージをする世界。それはとても平和な世界だと思います。

私にとってはそれがお弁当です。お弁当もマッサージも相手へのプラスの思いの集中力です。そういう”集中力”増やしていきたい。広げていきたい。
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覚悟っていつ決まるんだろう。
今まで生きてきて明確に覚悟を決めたことなんてあっただろうか。
覚悟というのは自分の生き方に対して本気になることだと思う。

私は随分と世の中の多くの人よりも自分の決めたルールが多くそれにしたがって生きていて、それはある種覚悟を決めないと出来ないようなことらしい。しかし明確にそれらをいつ決めたというのは存在していない。

地球環境や人間も動物も含めた生きとし生けるものへの負担になるようなことはしないこと。
世界平和を念頭に置いた消費活動をすること。
例えば年に数回しかエアコンなどを使わないこと、掃除機やテレビやレンジを持っていないこと、洗剤、化粧品、食べ物、あらゆる生活道具、それらの選び方、用い方、使い方。多くの人にとってそこまで出来ないと言われてしまうことをやっている…らしい。

嘘をつかない、殺さない、お酒を飲まない、動物性食品を口にしない。

大げさに覚悟を決めてやったというのは一つもない。結局それが心地よく、自分の生き方に合っていたからなんだろう。だから多分流されて、2年ぶりくらいにお酒を飲んだり、動物性食品を口にしたりした。覚悟ではなかったから。でも結果、それらがやっぱり自分の選択した人生に合わないと実感することになり、今度辞めるときはそれが覚悟というものになるかもしれないと思っていたりもする。流された結果、自分の生き方への動機づけのようなものが強くなったから。

ただ、心地良くないと、そぐわないと思いながらやめることができずにいるものが存在していて、それが私の場合ポテトチップスだ。完全に奴隷で食べたいときに食べれないことは苦痛でしかなく。仕事をしていてストレス過多になった時など、買ってから家までも我慢することが出来ずコンビニを出て食べながら歩いていた。

何度やめようと思っただろう。覚悟できるならしたかったが、出来ないほどに依存していて、決めたところで守ることが出来ない覚悟なんて覚悟ではなく。仕事をやめてからの1年間で、もうこれでやめれそうだと思ったことが何度もあった。その度に友人にやめれたと思う、やめれそうとメールをしたにも関わらず、まだ実現したとは言えない。

依存しているものは、生きてきた中でパターン化されたものの中に入り込んでいて、そのパターンが再現される度に欲求が出てくる。身体はそこまで欲していなくても頭で食べたくなるから、やめられない。こういうものこそ覚悟がいるんだろうと思う。(本当は方法はもうひとつあるんだけど、今日は置いておく)しかしそれは単純に心で決めて出来ることではなかった。そうせざるを得ない環境に自分で追い込むか、追い込まれた時にやっと出来るものなのかな、と。

つい最近、ポテトチップス(を含む一般的なスーパーに売られているお菓子)をやめることを決めた瞬間があって、それは覚悟に近いものだった気がしている。「食で生きていく、どこかに属するのではなく自分の力で」ということに対して本気になったこと、尊敬している人がひとり増えたこと、信頼する人が増えたこと、その人達と本当に対等にものを言える人になろうという気持ちがその瞬間を連れてきた。

同時に気づいたことは、マクロビオティックをはじめてから友人がすごく増えたにも関わらず、”志を同じくした仲間という関係性”ではない付き合いの中では覚悟を決めることは出来なかったのだということ。

だから今後は仲間になりたい。チームに。それはマクロビオティックを実践している友人だけに限ったことではなく、すべての人に対して。本気の付き合いでなければ意味が無いことがすごくわかったから。

人生は短い。だからいつも、一瞬一瞬、迂闊になることなく生きていきたい。そのために出来ることを一つづつ増やしていこう。




 
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私はこの3ヶ月くらい、人生で初めて休暇をとったと思う。それ以前は無職だったり、学校に行っていなくて、何もしていない、一見休みのような状態でも苦しくて苦しくてしょうがなかった。その期間がどれだけ長くても慣れることはなく、ずっと苦しかった。流れない水が腐るかのように停滞し体も心も腐敗して行くのを、あがきながらもどうすることも出来ず、自分も世界も嫌悪して。

レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。

こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。

──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。

それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。

精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。

私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。

しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。

そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。

マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。

「ノンクレド」

それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。

私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。

主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。

不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。

99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。





 
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先程のTwitterまとめ。この感覚周辺の色んな事を、よく考える。私は基本的に肉を食べないが、肉食の様々な弊害を理解し、いろんな主張をしている人々に対して必ずしも(感覚的な意味で)共感はしない。だけど食事に気を使っていなくても気持ちが通じたりする人がいる。

実家の犬の介護をしている時、この子は自分で食べ物を選ぶことはできないんだなぁと実感した。与えられたものを食べる人生。だけど彼女はとても幸福そうだ。そして多くのものを私達家族に与えてくれた。野生動物だってそう。選べない。なにより人間だって世界中の多くの人がそうであると気づく。それはつまり食べ物というのは人生の本質に直接的には関わらないのではないかということ。

だからといって私は一般的な食事をしようと思うわけではない。 できるだけちゃんと作られたものを食べるしマクロビオティックを勉強して行きたい。そして自分の体を少しでも良くしたいと思う。痛めつけてきた体を癒したいと思う。それは私の選択。

「肉食が環境汚染の主原因になっている」「肉食がたくさんの病気を生んでいる」「チョコレートは児童労働、搾取で成り立っている」「ダウンもウールも食肉も残酷な動物の死によって成り立っている」その他にもたくさん、たくさん。食べ物だけではない。私たちはたくさんの動物と人間を殺しながら生きている。その事実を余りにも多くの人が知らない。だけど同時に”事実”でありながら”真実”ではないとも思う。

牛乳は体にいいと信じて飲み続けている人。それはその人が牛乳と乳製品の多くの害を知らないからだろうか。疑問を持たないという選択の結果ではないだろうか。ほとんどの人が全く知らないわけではない。一度や二度、もしくはそれ以上、あらゆる食べ物、食べ物以外のものでも良くないとされる話を聞いたことがあるはずだ。そして、そんなはずがないと思ったり、食べたいから知りたくないと思ったり、それに対して流される反対意見を鵜呑みにしたりもする。情報が一切届かない人もいるだろう、ただただ信じて自分の体を痛めてしまう人もいるだろう。もしくは子供の体を。でももしそこに、一片のエゴもなく愛情しかなければ、その食べ物は本質的にその子供の人生に影響を与えるだろうか。

では、疑問を持たないことが、自分で知ろうとしないのが悪なのだろうか。害があると知っていても、もしくは弱者からの搾取で成り立っていると知ってても選択する場合もある。それは悪として糾弾されるべきことなのだろうか。

こんなことを考えているといつも思い出すのが小さい頃に読んだキリストの漫画伝記のある描写。罪を犯した女の人がいて、その女を石で打ってもいいかと聞かれたキリストは打ってもいいと答える。しかしその後にこう続ける「その女を石で打てるのは生まれてから一度も罪を犯したことない者だけだ」そして結局その女を石で打てるものは居なかった。 小さい頃はなんとなくキリストが正しいのかなって思ったけど、よく分からなかった。じゃあ人を殺したりいじめたりする人を罰することはできないのかな。もう少し大きくなってからもそんな疑問を持ち、そしてずっと心に残り続けた。

今はその意味を自分なりに解釈することができる。例えばハーゲンダッツを食べている人に、それを食べることはパレスチナ人を虐殺しているのと同じだと糾弾しながらスターバックスのコーヒーを飲んでいる、なんてこと。例えばフォアグラを食べている人に対して批判的な気持ちで心を満たし、その作られ方の残虐性を伝えながらダウンジャケットを着ているなんてこと。そんな人いるわけない?じゃあ反原発を叫びながら、ウールのセーターを着て肉を食べる人はどうだろう。タバコを吸う人を批判しながら、発泡酒を飲んでいる人はどうだろう。

同じ興味の範囲の中なら自分や他人や環境を傷つけない選択をすることは可能かもしれない。でも全てを知っている人はいない。私たちはほとんどのことを知らない。人は自分の知っている範囲のことを、自分の経験からくる思い込みで判断し選択している。だから他人の選択を批判することはできない。キリストの言葉はそういう意味を含んでいるんじゃないだろうか。他人に対して、外の世界に対して何かを要求したり批判することはできないんだと。

私は結局は自分なんだと思う。大切なのは。どこまで行っても自分だけ。自分の心と一瞬一瞬のあり方だけが大切。

そう思っていても、他人を批判する気持ちはしょっちゅう湧いてきたりする。でも、いろんなことが重なってそうしない自分に少しずつ変わっていっていることを体験している。全部自分次第だって、他人のせいにしない、外の出来事のせいにしないと決めた時から、世界は変わっていっているんじゃないかと思う。

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