祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

タグ:テレビ

覚悟っていつ決まるんだろう。
今まで生きてきて明確に覚悟を決めたことなんてあっただろうか。
覚悟というのは自分の生き方に対して本気になることだと思う。

私は随分と世の中の多くの人よりも自分の決めたルールが多くそれにしたがって生きていて、それはある種覚悟を決めないと出来ないようなことらしい。しかし明確にそれらをいつ決めたというのは存在していない。

地球環境や人間も動物も含めた生きとし生けるものへの負担になるようなことはしないこと。
世界平和を念頭に置いた消費活動をすること。
例えば年に数回しかエアコンなどを使わないこと、掃除機やテレビやレンジを持っていないこと、洗剤、化粧品、食べ物、あらゆる生活道具、それらの選び方、用い方、使い方。多くの人にとってそこまで出来ないと言われてしまうことをやっている…らしい。

嘘をつかない、殺さない、お酒を飲まない、動物性食品を口にしない。

大げさに覚悟を決めてやったというのは一つもない。結局それが心地よく、自分の生き方に合っていたからなんだろう。だから多分流されて、2年ぶりくらいにお酒を飲んだり、動物性食品を口にしたりした。覚悟ではなかったから。でも結果、それらがやっぱり自分の選択した人生に合わないと実感することになり、今度辞めるときはそれが覚悟というものになるかもしれないと思っていたりもする。流された結果、自分の生き方への動機づけのようなものが強くなったから。

ただ、心地良くないと、そぐわないと思いながらやめることができずにいるものが存在していて、それが私の場合ポテトチップスだ。完全に奴隷で食べたいときに食べれないことは苦痛でしかなく。仕事をしていてストレス過多になった時など、買ってから家までも我慢することが出来ずコンビニを出て食べながら歩いていた。

何度やめようと思っただろう。覚悟できるならしたかったが、出来ないほどに依存していて、決めたところで守ることが出来ない覚悟なんて覚悟ではなく。仕事をやめてからの1年間で、もうこれでやめれそうだと思ったことが何度もあった。その度に友人にやめれたと思う、やめれそうとメールをしたにも関わらず、まだ実現したとは言えない。

依存しているものは、生きてきた中でパターン化されたものの中に入り込んでいて、そのパターンが再現される度に欲求が出てくる。身体はそこまで欲していなくても頭で食べたくなるから、やめられない。こういうものこそ覚悟がいるんだろうと思う。(本当は方法はもうひとつあるんだけど、今日は置いておく)しかしそれは単純に心で決めて出来ることではなかった。そうせざるを得ない環境に自分で追い込むか、追い込まれた時にやっと出来るものなのかな、と。

つい最近、ポテトチップス(を含む一般的なスーパーに売られているお菓子)をやめることを決めた瞬間があって、それは覚悟に近いものだった気がしている。「食で生きていく、どこかに属するのではなく自分の力で」ということに対して本気になったこと、尊敬している人がひとり増えたこと、信頼する人が増えたこと、その人達と本当に対等にものを言える人になろうという気持ちがその瞬間を連れてきた。

同時に気づいたことは、マクロビオティックをはじめてから友人がすごく増えたにも関わらず、”志を同じくした仲間という関係性”ではない付き合いの中では覚悟を決めることは出来なかったのだということ。

だから今後は仲間になりたい。チームに。それはマクロビオティックを実践している友人だけに限ったことではなく、すべての人に対して。本気の付き合いでなければ意味が無いことがすごくわかったから。

人生は短い。だからいつも、一瞬一瞬、迂闊になることなく生きていきたい。そのために出来ることを一つづつ増やしていこう。




 
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作家と言えば小説家だと長いこと思っていましたが、この10年くらいで自分の手で何かを作って売っている人という認識に変わりました。個展や市でそういった方々を目にする機会が増えていったからだと思います。

私は本当に素直にいとも簡単に、学校教育やテレビなどに影響され、良いと言われているもの、支持されているものが素晴らしく、そうじゃないものを差別する意識を自分の中に育てていた人間です。もちろん若者らしく?ひねくれてもいたので、わかりやすく人気のあるもの、例えばロゴマークのついた服などは嫌悪の対象にしてはいましたが。しかし同時に、そんなものは見たこともないという顔をしながら、学歴コンプレックスに始まり、差別意識に支配されていたのです。

ですから初めて作家さん達とその作品を見たとき、あまり良い印象は持たなかったと記憶しています。「よくこんな素人っぽい商品を」と思ったこともあります。逆に自分の好みにあったもの、完成度の高いものを作る作家さんに出会ったときは心のなかで大絶賛。そして場合によっては自分と比べて落ち込むこともありました。良いと思ったものは称賛し、もしくは落ち込み、そうじゃないものに対しては心のなかでとことん冷たくなる。 もちろん、作品は価格をつけたら商品です。比べられ選ばれ売れていくのだから◯がついたり☓がつくのも当然のことです。「全部いいと思います。全部買います」そんなことありえません。

でもね。だからといって☓だと思った商品だけではなく作った人にまでも、センス無い、好きじゃない、ありえないと否定の気持ちで心を満たしてしまうのはどうでしょう。そんな人正直嫌なんですが。私という人間はそんなやつなのでありました。

しかし最近、反省とともに変化が起こり始めています。ものを作る人達がどんどん進化しているのを目の当たりにすることによって。 私は冷たい人間ですし、いとも簡単に差別する上に面倒くさがりの出不精なので、良くないと思った作家さんは当然としても、好きだと思った作家さんさえ2年、3年ぶりに見に行きます。その「2年ぶり3年ぶり」にこの1年多く遭遇しました。仕事をやめたのをきっかけにそういった場所に足を運ぶ機会が増えたからです。

そしたら。
びっくりするくらい進化している。完成度もバリエーションも。

今まで…作家さんを見ながら感じていた気持ちで一番多くを占めていた中学生のような感情を、具体的に言語化してみるとこうなります。

「私がこの人と同じくらいの時間(経験という意味での)作ることに費やすことが出来ればはるかにもっといいものが作れる。なのに私にはそれをすることができない。自分の思う、そのはるかにいいものと同等のものを作ることができないのであれば私は自分が作ったものを売るということは絶対にしない。だから私には永遠に叶わないことだ」

私は作家になりたいわけではありません。自分の作ったものを売って生活したいとは思いません。だからこんな感情を持つことも不思議といえば不思議なのですが、かつてものを作ることを学んでいたことがそういった感情を生むのでしょうか…? さて、生まれてしまったこの感情。まとめると『やればできるのに』と『あきらめ』です。中学生と評したのはその辺り。

ココでやっと話を戻します。 進化してゆく作家さんたちはその”あきらめ”に対して強烈に揺さぶりをかけてきました。過去、否定で心を満たした自分にも。

自分の思うハードルを超えられなくても、その先に、ずっと先でも、近づいていけるのであれば続けていってもいい、そしてその過程を表に出していっても許されるんだと。許す許さないの話ではないはずなのに私の意識はそうでした。私は自分が他人を否定する人間だからこそ、否定されることをとても恐れていて、────それはやってみようとすら思わない、選択をしたという意識もないまま、なにもしないことを選ぶことにつながっていました。

そう気づいてから否定で心を満たすことはなくなりつつあります。この作品を買おうとは思わない。以上、です。完璧じゃない自分を恥ずかしいと思わなくていいし、完璧じゃなくていいのだから大げさな決意を持って何かを始める必要もないし、やろうと思ったらやればいい。

それがこのブログにつながりました。だから、大げさな決意は伴ってないけれど(ここでは文章として)良くなっていくこと、自分の思うハードルを超えられることを目指していくことが大前提です。
ただし。

スパンはながく。ながーく。



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