昨日ひょんなことから仕事スイッチが入った。それは対お客様ではなく、スタッフに何かを教える時、話を聞く時のそれ。あるいは生徒さんに。

そしてそれは心地よかった。

帰り道、これは何かなーと考えていて、相手への集中力の高さだと気づく。人は、思いやりが根底にある集中力を発揮してる時に1番充実感を感じるんだと思う。チョコレートとかお酒とか簡単に手に入る快楽よりも全然。自分のためではなく、人のために。

仕事、経済とは本来そうあるべきもの。 競争ではなく。目の前の快楽や利益のためではなく。

私は、人間というものは渇望や嫌悪という自我がそれはもう当たり前にあるから、それらをどれくらい手放してるか掴んでるかは、人それぞれで、全員が手放すことなんて無く…だからその現実を受け入れて自分にできることをたんたんとやっていくだけ
と、思ってた。批判も絶望も何も産まないから。

でも、相手への集中力を心地よいと思う自分に気づいてから、心地いいと思うのも、それを求めるのも自我なんだから、こういう自我を発揮しやすい世の中にできればいい、エンデの遺言に出てくるお金のシステムはまさにそう。…システムさえあれば自我を持ったままでも、思いやりをベースにした経済活動ができる。最初はそれで十分じゃないかって。思った。

 私は、絶望的な状況下に置かれていた時、マクロビオティックで治ると言われて、救われた。まだ治ってなくてもそこに希望があるだけで、それは救いだった。なぜだかわからないけど確信もあった。

先生になりたいと思ったのはその時。

それから何年経っただろう。当時はものすごく遠くて非現実的にしか思えなかった、インストラクターの資格が今はとれていて、人に教え始めてる。そしたら、なにか、どこか心が失速して目標を失ったみたいになっていて。やるべきことも学ぶこともたくさんあるのに。

先生になるという目標の根本、私がやりたかったことは、自分と同じように苦しんでいる人に、これで治るよ、私は治ったよって言ってあげることだったからだと思う。そしてそれはもうできるようになっていた。だから目標を失ったんだ。私はたぶん、目指すものが必要なタイプの人間だから。より具体的な。

同時に私はマクロビオティックと向き合って行く中で自分を受け入れたり認めたりもできるようにもなった。きっとそれは自己実現というもの。

たぶん…人は自己実現ができたその後に、社会に、世界に、やっと本気で目が行くんだよ。だから私は、その次をみることができるようになって、でもどうしていいか考えても考えても、”ただたんたんとやって行くだけ”に、辿り着いていた。本当はそれは全く間違ってない。でも、私のそれはどこかに諦めを含んでしまってたんだ。

そんな時に出会えた2冊の本。「腐る経済」と「エンデの遺言」
システムさえあれば、思いやりをベースにした経済活動は可能という示唆。ポンっと貸してくれた先生にすごく感謝してる。

本に書いてあったことをそのまま実行するわけじゃない。でも、そのシステムがあること、健全な自我を発揮するシステムが作れれば、平和が現実的になることは、私にとって”次”をみせてくれるものだった。この視点をもって仕事をして行くことができるのが嬉しい。きっとそれが生きたクラスを作っていける。

頑張ろう。