祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

カテゴリ: ─ル。

真理は時として苦く、また心を傷つけることがあるものです。しかし、あくまでも真実なのですから、いずれは良い結果を生みます」”

(『シルバーバーチの霊訓  p.177)

傷つけたくない、は嫌われたくないというだけのことが多い。そういう時優しさという皮を被ると楽だ。

とはいえ、相手が今受け止めることが出来るのか、あるいはいつか受け止めることが出来るのか、をよく考えることは大切だと思う。

また、自分の信念をいつでも他人にアピールする必要なんてどこにもない。伝えたいという気持ちはよくみてみると、相手のためではなく、自分をわかってほしいや、「私は正しい」だけののことも多いだろう。

そのために伝えるのであれば、それはすでに真理ではない。本当に真理として伝えられる自分になってから伝えることもまた大切だと思う。




 

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野菜と穀物の味が好きだから。

それが一番、叩かれない理由なんだろうと思っていた。

好き嫌いというエゴは、隠さないことで好ましく思われることがある。健康のためだの、環境のためだのいうことは間接的に別のエゴを感じさせて不快にさせてしまうことがある。それはダブルスタンダードでありながら気づいていないことを見ぬかれている場合故がほとんどだ。



好きだからはイコールで美味しいからに繋がるのだと思っていた。

しかし私は今日おいしいと思わないのに好ましいと思うパン屋さんに出会う。

そのパン屋さんの店主の言葉
「イーストは主に、ドライイーストとインスタントドライイーストを使い、小麦粉は一般的に流通してるものに国産の小麦とかをブレンドし、パンの特徴を出しています。こだわる部分としては、イーストの量を減らし、低温で長時間の発酵を行い、生地の香りやうまみを引き出すこと。ふつうの材料を使いながら、大量生産では出せないパンの美味しさを追求しています」

この感性を好ましいと思う。

だからこそ、私は近所の直売所で野菜を買うという選択をしていたのだろう。近くで作られた野菜を作った人から買うシンプルさが好ましいと思ったから。

しかし結局、気軽な気持で応募した宅配野菜のモニターをすることでおいしい野菜に心がすっかりと動いてしまう。

これはダブルスタンダードな人と同じことをしているのかな。

いや。結局は全て、全て、結果ではなく心のなかで起きているプロセスがどんなものだったかが大切なんだ。

手に入りやすいものの中でベストを尽くすことで美味しさを目指すこと。

美味しさと安全さのために、材料にこだわること。

どちらにも良い悪いはない。

自分が大事にしたいと思っている物を本当に大事にできているかどうかだけだ。そこに、つまり心のプロセスにダブルスタンダードがないかだけ。


 
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初めての土地の、私のことを誰も知らない、チェーン店でもないカフェにきて、乳製品も砂糖もしっかり入っているであろう、でもすごくすごく美味しいケーキと一緒にコーヒーを飲んでいるいと、なんだか、昨日までの自分が遥か遠くに行ってしまったような。

ニセコで、ふと楽しいことってなんだろうって思った。福島ではまだ大変な状態が続いていて、日本ももう、どうなるんだろうという状況の中にいて、でも私はそことは全く関係のない青空のしたで音楽を聴いてワインを飲んでいた。違和感があった。

選挙を経て、種市を経て、なんとかしたいと、いつのまにか、ものすごくものすごく力んでいた私。
その前は、力まないと決めていたのに。笑顔でと。ただ、全力を尽くそうと。

ニセコの空はとても、非日常だった。そして違和感をもった。現実から遠い場所にいる自分に。自分の心は現実の中にいるのにと。

だけど。 非日常なのに、カフェ、─というよりも喫茶店、クラシックの流れる重厚なお店で、雨の日に鏡を見ているみたいな、日常の中の自分の内側の静かな場所に来てしまうと、なんで違和感を感じず、こんなに現実から遠ざかってしまうのだろう。

なんとかしたいと、力んでいたのが私にとってのリアルでは全くなかったということなんだろうか。緊張せずに、リラックスして、今だけ感じている。これが私の現実なんだろうか。私にとって全然私じゃない場所にいると、ここにいる自分と違う自分になってしまうのだろうか。でも、その自分は、何度も何度も見てきた自分で、自分以外の何者でもないように思いもする。 でも─私じゃないと心の奥で叫んでいる。恥ずかしさと、なのに、とめられない。

私はいつも、この静かな場所にくるとホッとする。自分が自分であることの違和感を感じない場所。 誰に見られても、怖くない、これが私だと思ってもらっても、何にも怖くない。自分と今の感覚だけに集中している時間。

この場所にいながら、この時間を過ごしながら、例えば仕事をすることが、日常の料理や洗濯や掃除や、─をできるようになるのだろうか。排出の先に出会える自分はこれが”いつも”の自分だったりするのだろうか。

雨を眺めている時間や、サウンドオブミュージックを聴いている時間や、90年代初期の江國香織を読んでいる時間は小さい頃の自分とちゃんと繋がっている気がする。あの自分が成長したのが今の自分という感じがちゃんとする。自分が自分であることの違和感のなさ。一生懸命でも、真面目でもなくて、ただ自分であること。

私はいつも、ほとんどの時間、どこに行っているのだろう。 夫と一緒にいる時すらこの時間は訪れない。夫はやっぱり私にとって新しい人で、過去の自分とは繋がらない。弟さえも。
繋がるのは妹と、おばあちゃん。

姉妹というのは不思議だ。 妹と一緒に過ごしたのは、18年間。あと10年経てば、夫と過ごした時間の方が長くなる。でも、妹のようなつながりはきっと生まれない。もちろん夫との繋がりは特別なものだけれど、 守られていた中で生まれた繋がりと、一緒に戦う繋がりは全然違うものなのかな。

一日に一度、雨が降らなくてもこの時間をとるようにしてみようか。

ダライ・ラマも言っていた。一日に一度一人になる時間を持ちなさいと。ただ一人になるのではなく、きっとこういう違和感のない自分として、一人になることが大事なんだ。 きっと。

でも、まだわからないけど。
暇なだけかもしれない。


 
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私はこの3ヶ月くらい、人生で初めて休暇をとったと思う。それ以前は無職だったり、学校に行っていなくて、何もしていない、一見休みのような状態でも苦しくて苦しくてしょうがなかった。その期間がどれだけ長くても慣れることはなく、ずっと苦しかった。流れない水が腐るかのように停滞し体も心も腐敗して行くのを、あがきながらもどうすることも出来ず、自分も世界も嫌悪して。

レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。

こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。

──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。

それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。

精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。

私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。

しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。

そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。

マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。

「ノンクレド」

それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。

私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。

主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。

不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。

99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。





 
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私は世界平和を願っている。桜満開の中でみんな笑顔みたいな、世界中みんな笑顔みたいな世界を。

だけど、
私周りの人に肉食をやめようなんて、言わない。
脱石油していこうなんて、言わない。
原発のことも、言わない。

私たちがごく当たり前のものだと思っている生活が世界中の人を、動物を、いろんな命を奪い取って成り立っているものだなんて言わない。日本は戦争をしていないと思っているかもしれないけれど、戦争というものを経済という型にはめこんで、戦争に見えないようにしているだけで、自分たちの欲望のために奪い殺していることは進行しているのだと、同時に、私たちも命を奪われ搾取されているのだと、言わない。

なぜ言わないのか。

それは今まで書いてきた記事のような思いがあること、人はみんな、自分の速度で学んで行くものだと思っているから。忘れているけれど生まれる前に決めたそれぞれのカリキュラムを一つ一つ学んで行っていると思っているから。そして世界を平和にするには自分の心を綺麗に、クリアにして行くことが一番の近道だと思っているから。だった。そうだった。

だけど。

さっきジョンレノンのhappy xmasのPVをみて素直に思ったんだ。 世界平和を叫びたいって。 もう、いいじゃない。 肉なんか食べなくたって、奪い合わなくたって、もう十分に繰り返したじゃないって叫びたくなった。訴えたくなった。もうやめようよって。

多分こんな、瞬間の、純粋な気持ちなら相手に伝わるのかもしれない。

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