祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2015年04月

幸福感とはなんだろうとネパールのことを考えながら思う。

と言うのは嘘だ。
私はその正体を知っているけれど、口には出せないから、そうやって考えているふりをして
楽になろうとしただけ。

今日は結局こびてしまう。
幸福感を大切にする人たちに。

ミコト屋のベビーリーフを使ったそうめんがとても美味しかった。自分の作るご飯が好きだ。

日記を読み返して、大きな変化が起こっているのにそれを書いていないことに気づく。夜明け前が一番暗いというけれど、一度目の夜が明けたみたいで。 何からかけば良いのかわからないまま今に至る。
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真理は時として苦く、また心を傷つけることがあるものです。しかし、あくまでも真実なのですから、いずれは良い結果を生みます」”

(『シルバーバーチの霊訓  p.177)

傷つけたくない、は嫌われたくないというだけのことが多い。そういう時優しさという皮を被ると楽だ。

とはいえ、相手が今受け止めることが出来るのか、あるいはいつか受け止めることが出来るのか、をよく考えることは大切だと思う。

また、自分の信念をいつでも他人にアピールする必要なんてどこにもない。伝えたいという気持ちはよくみてみると、相手のためではなく、自分をわかってほしいや、「私は正しい」だけののことも多いだろう。

そのために伝えるのであれば、それはすでに真理ではない。本当に真理として伝えられる自分になってから伝えることもまた大切だと思う。




 

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今日も中毒者。英語とポテトチップスの。炭水化物の中毒者。そして喜びと美しさの。

亀田大介さんの器を初めて使ったのは旦那。小豆玄米の甘酒を入れた。
納豆菌が届いたから、スズマルを浸水。明日蒸して納豆を仕込もう。

ずっと美味しいものが作れない。どれくらいだろう。あの日、野菜ボックスが初めてどどいた日はまだ美味しかった。でも、次の日はもう。惰性の中で作っているとそんな味にしかならない。惰性だからつい油と調味料を増やしてしまう。手を抜いているのが自分でわかっているから、油と調味料で補ってしまう。無意識に。

惰性の理由は、心が他のものに奪われているから。中毒者。ずっと何かに夢中だ。戻ってこれない。かろうじて夜眠っていたけれど、昨日の夜はとうとう眠れなかった。ずっと英語。instagramの中にいた。料理の、できればベジ系の投稿者でできれば写真が綺麗で、できれば言葉も綺麗な人(判断がつく英語力はないのだが)を探したり、訳したり、書いたり。

いや、夢中と書いてしまったらそれは聞こえが良すぎるな。そんなものは集中というものに失礼だ。中毒なのだ、それはある種の怠惰。中毒性の高いものに対して抗わないことは怠惰だ。
ああそうか、私はやっぱり躁鬱の気があるのかもしれないな。

私は基本的に殆どのことができないが、その理由は何かに中毒になっているか、無気力かのどちらかだから。 正直、このまま行けば私は体を壊して死ぬのかもしれない。

マクロビオティックの名誉のためにそう宣言してしまいたい誘惑にかられる時もある。だけど、そうじゃない。マクロビオティックはそもそもそういうものでもないし、そして私は出会っている。vipassanaに。出会っていれば救われるものではない、道を知るのと歩むのは違うのだから。

だけど、心から絶望することはないから、きっとそういう死に方ではない気がする。

時々思う。 素晴らしい人が突然死ぬ。素晴らしい人が事故にあって元の生活には戻れなくなったりする。私にはできない事をしている人が、私よりはるかに優れている人が、そんなことになる。人生とはそういうものなのだ。

そこにはきちんと種があるのだろうか。心の反応以外のことだけれど、現実はすべて心の反映なのならば、素粒子の世界でそうなのであれば。わからない。 突然の死に備える必要があるとツイートに書いてあったな。それでは…肉体があるからだろうか。物質に抗えないからだろうか。

久しぶりに覚醒への光に道を読んだ。ああ。私はなんという愚者で怠惰に埋没しているのだろうか。本当に愚かだ。出会っているのに、道に出会っているのに。メンターにも。なんて恵まれているのだろうか。なのに。 美しいとはなんだろうと、思う。心が揺さぶられる想い。静けさとは平静さとは程遠い心。それは美しい。鮮やかだ。しかし、静寂の中のそれは?  別物なんだろうか。別物なんだろう。

四月は君の嘘をみている。漫画やアニメにここまでのものを表現できるなんて思わなかったな。ちはやふるや、おおきく振りかぶってが限界、というか最高値だと思っていた。アニメ表現の。

単純な感動の中に鮮やかな方の美しさが殴りこんできているようなアニメ。揺さぶられる。眩しい。
そして憧れのような嫉妬心さえ思い出させながら、だけどキラキラしている。


ピアノが弾きたい。



 
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