祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2014年09月

正確に言うと、文章を書くのが好きでも向いているのでもなく、思っていることをただ吐き出すのが好きで、考え事や頭の整理にその作業をすることが向いているという感じなんだけど。
文章を書くことが好きも向いているもその一部だしわかりやすいからいいやとその表現にしてしまった。

しかし。
なんてうまいんだ。という文章を読むと、好きだし向いていると書いたことについて補足しないと恥ずかしい気分になってしまった。

文章を書くことに対してプロ意識なんてない。うまい文章をみると賞賛する気持がうまれ、恥ずかしい気持ちも生まれるけれど、そうなれない自分への悔しさは感じない。意図的に向上する意識があまりないからだろう。文章よりも食のほうがはるかに大切と感じるのもそういうこと。

料理はうまくなりたい。クラスもよりよいものを作りたい。ゴール設定もあるし指針もある。そのためにいつも何かしているし探している。だからどんどん変化していく。文章はわたしにとって娯楽なんだと思う。ゴールもなければ指針もない。だから何時間でもできるんだろう。

はぁ。それにしても彼は素晴らしいな。頭の出来がまるで違う。


 
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文章と料理と食のつづき


わかった。
──あれが自然食のお店だったからだ。

3,000円の服を買って、一度洗ってだめになってしまったとして。同じくらいの価格の服は全部同じようだめになるんだなんて思われたりしないだろう。外れだったと思われるだけだ。(─と、少なくとも私は思っているらしい)

でも、自然食やベジのお店だと、それが全てだと思われかねない。(─と、少なくとも私は思っているらしい)

体にいいものは美味しくない。ベジは美味しくない。動物性がないと美味しくない。自然食系のところって自然なのかもしれないけど、きれいじゃないし素敵じゃない、と、思われるのが、嫌なんだ。私は。

洋服と比べたから混乱したんだね。同じ飲食店で比べればすぐにわかったのに。
チェーン店の味が微妙でもあんな風に思わない。

結局自分が自分の思われたいように思われないことが嫌だからの「大きら〜い」発言ということだ。納得。自分が大切、自分への執着ゆえの嫌悪。

とはいえ。純粋な大切、純粋な好き、も存在している、はず。私の食に対する気持ちにもちゃんとそれがあると思える。でも、人間はそこに殆どの場合執着も混在する。自分自身への執着によって。





◯今日わかったこと◯
───私は料理をすることに対して執着がないし、そこに自分のアイデンティティみたいなものは見出していない。だけど「食」にまつわるあれこれをすごく大切に思っている。

───私は自分自身に対して、私が関わることに関してネガティブな感情を抱かれるのが嫌、という反応をまだまだしている。

───私は文章を書くのが好きかもしれないけど、自分語りが好きなだけでもあるような?ああ…エゴまみれ。


 
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私は文章を書くのが嫌いではない。
好きかというと…わからない。

毎日のように書きたいわけでもないけれど、一気に沢山の文章をブログに書く日もあるし、思いついた事をTwitterにどんどん投稿する日もあるし、紙に書く日もある。日記は書いたり書かなかったりはあるけれど、いろんな形をとりながら20年位書き続けていている。
好きかと言われるとよくわからないけれど、向いているとは思う。

で。
料理はというと。 私の日々のSNS投稿や、仕事柄から、好きだし向いているし一生懸命やっていると思われている、ようだ。

が。
文章への自分のあり方と、料理への自分のあり方を比べると。

びっくりした。
今、はっきりしてしまったじゃないか。
私は文章を書くことが好きだし向いていると思うけれど、料理は好きではないし向いてない。

料理に関して、そんなに好きではないし向いていないという発言は過去にもしたことがある。だけど「文章を書くこと」と「料理」を比べることで、両者に対しての自分の気持がこんなにもはっきりするとは思わなかった。

文章は誰のためでもなくても何時間だって、一日中だって書いていられるけれど、料理は誰かのためにしかできない。それも数時間しかできない。にも関わらず私は「食」というものが好きだし、すごく大切にしていると思う。文章を書くことよりずっと。

大切と好きと執着の違いってなんだろう。


今日、旅の終わりに立ち寄ったお店。
何のために飲食店をしているのかわからなかった。絶対に料理が好きではないだろうしカフェという場所を愛してもいないだろう。大切にもしていない。帰り道に口から出てきた言葉は「自然とかナチュラルを装った雑さって大きらーい」

でも。 あれが洋服のお店だったら大嫌いなんて言葉は出てこない。ただ通り過ぎるだけ。
私は洋服が好きなのに。

大切、を構成しているのが執着だけとは思えない。
でも、好き、を構成しているのが純粋さだけとも思えない。


あの嫌悪はどこからきたんだろう。

つづく



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