祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2014年02月

人生は実は単純だ。
みんな苦しい。
自分のこと、家族のこと、友達のこと、仕事のこと、恋人のこと、将来のこと。全部自我で苦しいから。同じ。 そしてそのためにやってくるものはちゃんとやってくる。事故や事件や病気や。 そのおかげで自我を少しずつ手放しながら知って行く。

必要なことしかやってこない。必要な事というのも本当は少し違って、全部ただおこる。その通りに。 本当は自分次第で今この時から変われる。

でもそれができないからやってくる。 わからないからやってくるし、わかってもできなければやってくる。

ちゃんと。

道はちゃんとある。近道はないけど、道はある。 近道に見えるものがあるならそれは落とし穴。ヒントはたくさん転がってる。ヒントならいいでもカンニングに意味はない。むしろ知らずに後ろに下がってるかもしれない。

自分でどれだけ少しでも進めるか。自分でしか進めない。誰も代わりには進んでくれない。

誰にもできない。
自分でしかできない。


 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote

昨日ひょんなことから仕事スイッチが入った。それは対お客様ではなく、スタッフに何かを教える時、話を聞く時のそれ。あるいは生徒さんに。

そしてそれは心地よかった。

帰り道、これは何かなーと考えていて、相手への集中力の高さだと気づく。人は、思いやりが根底にある集中力を発揮してる時に1番充実感を感じるんだと思う。チョコレートとかお酒とか簡単に手に入る快楽よりも全然。自分のためではなく、人のために。

仕事、経済とは本来そうあるべきもの。 競争ではなく。目の前の快楽や利益のためではなく。

私は、人間というものは渇望や嫌悪という自我がそれはもう当たり前にあるから、それらをどれくらい手放してるか掴んでるかは、人それぞれで、全員が手放すことなんて無く…だからその現実を受け入れて自分にできることをたんたんとやっていくだけ
と、思ってた。批判も絶望も何も産まないから。

でも、相手への集中力を心地よいと思う自分に気づいてから、心地いいと思うのも、それを求めるのも自我なんだから、こういう自我を発揮しやすい世の中にできればいい、エンデの遺言に出てくるお金のシステムはまさにそう。…システムさえあれば自我を持ったままでも、思いやりをベースにした経済活動ができる。最初はそれで十分じゃないかって。思った。

 私は、絶望的な状況下に置かれていた時、マクロビオティックで治ると言われて、救われた。まだ治ってなくてもそこに希望があるだけで、それは救いだった。なぜだかわからないけど確信もあった。

先生になりたいと思ったのはその時。

それから何年経っただろう。当時はものすごく遠くて非現実的にしか思えなかった、インストラクターの資格が今はとれていて、人に教え始めてる。そしたら、なにか、どこか心が失速して目標を失ったみたいになっていて。やるべきことも学ぶこともたくさんあるのに。

先生になるという目標の根本、私がやりたかったことは、自分と同じように苦しんでいる人に、これで治るよ、私は治ったよって言ってあげることだったからだと思う。そしてそれはもうできるようになっていた。だから目標を失ったんだ。私はたぶん、目指すものが必要なタイプの人間だから。より具体的な。

同時に私はマクロビオティックと向き合って行く中で自分を受け入れたり認めたりもできるようにもなった。きっとそれは自己実現というもの。

たぶん…人は自己実現ができたその後に、社会に、世界に、やっと本気で目が行くんだよ。だから私は、その次をみることができるようになって、でもどうしていいか考えても考えても、”ただたんたんとやって行くだけ”に、辿り着いていた。本当はそれは全く間違ってない。でも、私のそれはどこかに諦めを含んでしまってたんだ。

そんな時に出会えた2冊の本。「腐る経済」と「エンデの遺言」
システムさえあれば、思いやりをベースにした経済活動は可能という示唆。ポンっと貸してくれた先生にすごく感謝してる。

本に書いてあったことをそのまま実行するわけじゃない。でも、そのシステムがあること、健全な自我を発揮するシステムが作れれば、平和が現実的になることは、私にとって”次”をみせてくれるものだった。この視点をもって仕事をして行くことができるのが嬉しい。きっとそれが生きたクラスを作っていける。

頑張ろう。 




 

失恋ショコラティエのせいで、頭の中が甘ったるい。

更にドラマでは大丈夫だったのに原作だとチョコレート食べたくなる感がすごいの。しかもそれはチョコレートが食べたいわけじゃなく、チョコレート食べてるシチュエーションがやりたくなるっていう食べたさ。香水つけたくなったりワンピース着たくなったり。

バカだなと思う。まんまとバカな女。でもね、思うんだ。こういう脳内お花畑感って本当はあってもそんなに悪いことじゃないのにねって。バカだと言われちゃうのはさ、真逆の残酷な世界があってしかも加担してることに気づかないできゃっきゃしてるからでしょう。チョコレートはちっとも甘くなんかないからでしょう。

恋愛ドラマみて、恋したくなったり、好きな人に会いたくなったり、きれいになりたくなったり、ワンピース着たくなったり、チョコレート食べたくなったりして、それを実行しても誰も、動物も、間接的に傷ついたり死んだりしない世界だったらな…

…とここまで考えて、でも、本当に平和だったらさ、そもそもおしゃれだったりかわいいふりをしながら人間の欲を煽るドラマは、作られない気がする。平和な世界での、純粋な娯楽の恋愛ドラマってどんなドラマなんだろうな。人間の欲を煽らないクリエイティブなものってあるのか?それは純粋に美しいもの?

そういう純粋な美しさって自然の中にしかない気もするよ。

人間の作るものは欲望にインスパイアされたものしかないような。賛美歌とかさえそうだよね。

でもだからといって、諦めたくはないんだ。諦める必要もないんだ。人間に生まれたからには人間なのはしょうがない。だけど、欲にまみれながらも、苦しみながらも、結局、真に美しいものを目指すのも人間なんだと思う。無我を目指すには健全な自我が必要なんだ。 こんなこと書くあたりがチョコレート脳なんだ。

酔っ払いと同じ。あーあ。

すごく
ぐらぐらした
1日だった


体の調子がよくて、いいことばかりおきて、やりたいことがやれていて、人のために動くこともできていて、好きな人に囲まれて生活していると、自分の弱さや汚さを見ないですんでしまう。

成長したんだとか思ってたけど、この数日ちょっとしたことが連続で起こっただけで、自分のバカなところが見えて愕然としたのです。ただなんだかうまく行ってただけだったのに想像力のなさに恥ずかしくなって自己嫌悪
…しかけた。

でもやめた。 それでいいんじゃないかと。いろんなことうまく行く時はその流れに乗ってできることをやる。うまくいかない時が来て何かに気づいたら気づいたことをする。それでいいさ。完璧だったら生まれてくる必要ないもん。

 

このページのトップヘ