祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2013年08月

17年ぶりのピアノ。

久しぶりに触ってみるまで、弾けそうな好きな曲をYouTubeで探して、目と耳で覚えて、分からないところは楽譜で補完して弾こうと思っておりました。動画と楽譜で弾けるんじゃないかなと思ってたのです。
さらに、弾いたことある曲だったら少し練習すればまたすぐ弾けると思ってたりもしました。

が、触ってみたらそれ以前の問題です。全然指が動きません。ピアノ教室の直前にあわてて1時間くらいピアノ触る超不真面目な生徒していると、10年近くやってても弾ける曲が一曲もない。すごい上手だったあの子やあの子の顔が浮かびます。彼女たちは今も弾けるんだろうなぁ。

そんなこんなで、小さい頃一番嫌いだった指の練習みたいな曲の楽譜がいると思い、でもそれがなんなのかも分からず、調べてみたら、ハノンというらしい。 そしてついでにバイエルとかソナチネとかブルグミュラーがなんなのかも初めてちゃんと知った。ヤマハに通ってたから、バイエルって何か知らなかったのです。

さらに、私は初見なんてすごい人たちがやるもので、できるようにならなくていいと思ってたんだけど… ピアノの練習方法について調べるうちに、どうも上達には必須のスキルであることがわかりました。楽譜も、わからないところだけ確認するために見るもので読譜なんてできなくていいと思ってたんだけど、初見やるにはできないといけません。

好きな曲が弾けるようになればそれでいいと思っていたのですが、それと並行して、地道に、簡単な楽譜の初見やったり、指の練習やったり、ちゃんと、練習をしてみようと思いました。

初見の練習をバイエル、ブルグミュラーでやっていって、指の練習をハノンとかリトルピシュナ?でやって、好きな曲は予定通り楽譜と動画でやってみようかと。

今ちょっとバイエルとブルグミュラーの楽譜ネットで探してみて弾いてみたのですが、初見の練習と思って弾くと楽しいのです。やらされるのと、自分からこれができるようになるためにやろうは全然違う違うんだね。31歳のバイエル、ブルグミュラー楽しいぞ。ふふ。



 

我が家にピアノがやってきました。

習ってた頃、練習が楽しいと思ったことは多分一度しかないまま、一生懸命になることもなく、15歳になる前に辞めてしまったピアノ。

この数ヶ月、体調がよくなるのと同時に、色んな事が豊かになって行く中で、ピアノのCDを借りてピアノばかり聴いていたらもう、弾きたくてしかたなく。体調の悪さや精神的な弱さのなかで、何かを一生懸命練習するという経験をしてこなかったので、一生懸命になりたいという欲求も重なっていました。

そしたら…電子ピアノをいただけることになったんです。4畳半と6畳の2kの狭〜い我が家には大きすぎる楽器なんですけど、他のものを手放してでも、迎えたかった。 編み機3台とリンキング機とニットテーブルにはさようなら。夏休みが明けたら学校に寄付します。

ごちゃごちゃした部屋では、ピアノの練習に集中もできないから、他にもできるだけモノを手放して行こうと思います。洋服も減らす。そして、着物を増やすのです。ピアノも独学、着付けも独学で行く。というかそれしか選択肢がないのだけど笑 仕事復帰して少しお金に余裕ができたら習いに行くの。そのために復帰目指して頑張る。きっとその頃にはいい先生に出会えるね。

私、マクロビオティックに救われてから、マクロビオティック一色の人生だったのです。だから、ピアノが私の人生に戻ってきてくれてたことは、ものすごく大きな変化。

この狭い部屋で、ピアノと共に生活すべく、家具の配置とか明日一日頑張って色々検討です。とりあえず、ふすまは取り去りました。ふた部屋つなげないと、どうにも配置不能で。それで我が家は全く違う景色に。本当に物理的にも精神的にも全く違う生活が訪れたなと、思っています。

ピアノさん、もう少し我慢してね、居心地のいい部屋を作るから!

お酒やめます。

2年半やめてました。

そして5月末くらいから3ヶ月ほど解禁してみて思いました。

お酒は美味しい。そして楽しい。

大好きなお店での日本酒も梅酒も、北海道の青空の下のワインも、花火大会のあっつい中のビールも、旅行で飲み比べたワインやシェリーも、昨日のギャラリーで飲んだ地ビールも、焼き鳥屋で飲むお酒も、楽しくて、美味しかったです。

お酒10年近く飲んできた中で、一番美味しかったのはこの3ヶ月のお酒だった。

しかし同時に、その一番美味しいお酒を楽しむ自分よりも、お酒を飲まない自分のほうが、しっくりきていたことがよくわかった3ヶ月でもありました。

酔っている自分は、自分じゃなかった。

お酒さよなら。こんにちはお酒のない人生。これからよろしくね。

 

初めての土地の、私のことを誰も知らない、チェーン店でもないカフェにきて、乳製品も砂糖もしっかり入っているであろう、でもすごくすごく美味しいケーキと一緒にコーヒーを飲んでいるいと、なんだか、昨日までの自分が遥か遠くに行ってしまったような。

ニセコで、ふと楽しいことってなんだろうって思った。福島ではまだ大変な状態が続いていて、日本ももう、どうなるんだろうという状況の中にいて、でも私はそことは全く関係のない青空のしたで音楽を聴いてワインを飲んでいた。違和感があった。

選挙を経て、種市を経て、なんとかしたいと、いつのまにか、ものすごくものすごく力んでいた私。
その前は、力まないと決めていたのに。笑顔でと。ただ、全力を尽くそうと。

ニセコの空はとても、非日常だった。そして違和感をもった。現実から遠い場所にいる自分に。自分の心は現実の中にいるのにと。

だけど。 非日常なのに、カフェ、─というよりも喫茶店、クラシックの流れる重厚なお店で、雨の日に鏡を見ているみたいな、日常の中の自分の内側の静かな場所に来てしまうと、なんで違和感を感じず、こんなに現実から遠ざかってしまうのだろう。

なんとかしたいと、力んでいたのが私にとってのリアルでは全くなかったということなんだろうか。緊張せずに、リラックスして、今だけ感じている。これが私の現実なんだろうか。私にとって全然私じゃない場所にいると、ここにいる自分と違う自分になってしまうのだろうか。でも、その自分は、何度も何度も見てきた自分で、自分以外の何者でもないように思いもする。 でも─私じゃないと心の奥で叫んでいる。恥ずかしさと、なのに、とめられない。

私はいつも、この静かな場所にくるとホッとする。自分が自分であることの違和感を感じない場所。 誰に見られても、怖くない、これが私だと思ってもらっても、何にも怖くない。自分と今の感覚だけに集中している時間。

この場所にいながら、この時間を過ごしながら、例えば仕事をすることが、日常の料理や洗濯や掃除や、─をできるようになるのだろうか。排出の先に出会える自分はこれが”いつも”の自分だったりするのだろうか。

雨を眺めている時間や、サウンドオブミュージックを聴いている時間や、90年代初期の江國香織を読んでいる時間は小さい頃の自分とちゃんと繋がっている気がする。あの自分が成長したのが今の自分という感じがちゃんとする。自分が自分であることの違和感のなさ。一生懸命でも、真面目でもなくて、ただ自分であること。

私はいつも、ほとんどの時間、どこに行っているのだろう。 夫と一緒にいる時すらこの時間は訪れない。夫はやっぱり私にとって新しい人で、過去の自分とは繋がらない。弟さえも。
繋がるのは妹と、おばあちゃん。

姉妹というのは不思議だ。 妹と一緒に過ごしたのは、18年間。あと10年経てば、夫と過ごした時間の方が長くなる。でも、妹のようなつながりはきっと生まれない。もちろん夫との繋がりは特別なものだけれど、 守られていた中で生まれた繋がりと、一緒に戦う繋がりは全然違うものなのかな。

一日に一度、雨が降らなくてもこの時間をとるようにしてみようか。

ダライ・ラマも言っていた。一日に一度一人になる時間を持ちなさいと。ただ一人になるのではなく、きっとこういう違和感のない自分として、一人になることが大事なんだ。 きっと。

でも、まだわからないけど。
暇なだけかもしれない。


 
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私は「食」を通してみえてくる世界にすごく真剣です。食と世界平和は直結していると思っています。本質的に本当に美味しいものは人の心に響くし世界も変えられると。

美味しさと同じくらい、私が大事にしているのが美しいもの。私は今の日本の現状は”あらゆる意味での美意識”を破壊されてしまったことが作っていると思っています。

心を込めて丁寧に人の手で真剣に作られた美味しいものと、美しいもの。できれば日本人の手でつくられたそれ。少しでも多くの人がそういうものに触れて行ってくれたらと思っています。そのきっかけを作れたら、とも。

種市は種を通して本当に真面目に楽しく熱く、危機感を煽るのではなく、日本と世界の、現実と未来への希望の形をみせてくれました。そんな絶対に消してはいけない灯火のような種市と比べたら、かわいい布博は軽くみえるのかもしれません。それでも、私が手紙社のイベントが好きなのは、ある種の美意識見せ続けてくれているからです。多くの日本人が忘れたどころか、触れたこともないような美意識を、ものすごく沢山の人にみせてくれて、影響させ続けているように思います。 

だから私は応援したい。最初はただ、かわいい!でも良いんです。どうかそれがきっかけとなって、美しいものを大切にすること、自分の中に譲れない美意識を持つ人が増えますように。

美味しいものと美しいものはきっと世界を救える。

 
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