祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2013年07月

覚悟っていつ決まるんだろう。
今まで生きてきて明確に覚悟を決めたことなんてあっただろうか。
覚悟というのは自分の生き方に対して本気になることだと思う。

私は随分と世の中の多くの人よりも自分の決めたルールが多くそれにしたがって生きていて、それはある種覚悟を決めないと出来ないようなことらしい。しかし明確にそれらをいつ決めたというのは存在していない。

地球環境や人間も動物も含めた生きとし生けるものへの負担になるようなことはしないこと。
世界平和を念頭に置いた消費活動をすること。
例えば年に数回しかエアコンなどを使わないこと、掃除機やテレビやレンジを持っていないこと、洗剤、化粧品、食べ物、あらゆる生活道具、それらの選び方、用い方、使い方。多くの人にとってそこまで出来ないと言われてしまうことをやっている…らしい。

嘘をつかない、殺さない、お酒を飲まない、動物性食品を口にしない。

大げさに覚悟を決めてやったというのは一つもない。結局それが心地よく、自分の生き方に合っていたからなんだろう。だから多分流されて、2年ぶりくらいにお酒を飲んだり、動物性食品を口にしたりした。覚悟ではなかったから。でも結果、それらがやっぱり自分の選択した人生に合わないと実感することになり、今度辞めるときはそれが覚悟というものになるかもしれないと思っていたりもする。流された結果、自分の生き方への動機づけのようなものが強くなったから。

ただ、心地良くないと、そぐわないと思いながらやめることができずにいるものが存在していて、それが私の場合ポテトチップスだ。完全に奴隷で食べたいときに食べれないことは苦痛でしかなく。仕事をしていてストレス過多になった時など、買ってから家までも我慢することが出来ずコンビニを出て食べながら歩いていた。

何度やめようと思っただろう。覚悟できるならしたかったが、出来ないほどに依存していて、決めたところで守ることが出来ない覚悟なんて覚悟ではなく。仕事をやめてからの1年間で、もうこれでやめれそうだと思ったことが何度もあった。その度に友人にやめれたと思う、やめれそうとメールをしたにも関わらず、まだ実現したとは言えない。

依存しているものは、生きてきた中でパターン化されたものの中に入り込んでいて、そのパターンが再現される度に欲求が出てくる。身体はそこまで欲していなくても頭で食べたくなるから、やめられない。こういうものこそ覚悟がいるんだろうと思う。(本当は方法はもうひとつあるんだけど、今日は置いておく)しかしそれは単純に心で決めて出来ることではなかった。そうせざるを得ない環境に自分で追い込むか、追い込まれた時にやっと出来るものなのかな、と。

つい最近、ポテトチップス(を含む一般的なスーパーに売られているお菓子)をやめることを決めた瞬間があって、それは覚悟に近いものだった気がしている。「食で生きていく、どこかに属するのではなく自分の力で」ということに対して本気になったこと、尊敬している人がひとり増えたこと、信頼する人が増えたこと、その人達と本当に対等にものを言える人になろうという気持ちがその瞬間を連れてきた。

同時に気づいたことは、マクロビオティックをはじめてから友人がすごく増えたにも関わらず、”志を同じくした仲間という関係性”ではない付き合いの中では覚悟を決めることは出来なかったのだということ。

だから今後は仲間になりたい。チームに。それはマクロビオティックを実践している友人だけに限ったことではなく、すべての人に対して。本気の付き合いでなければ意味が無いことがすごくわかったから。

人生は短い。だからいつも、一瞬一瞬、迂闊になることなく生きていきたい。そのために出来ることを一つづつ増やしていこう。




 
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理想の自分像って誰でもあるのでしょうか。私の場合ずっと憧れているのが、透明感があって女性らしくてはんなり和の要素もある人で、知人にも何人かいて本当に素敵だなと思ってきました。みためや雰囲気だけのことではなく、彼女たちは愚痴なんて絶対いわないし、優しくて聡明。中身も含めて、本当にすてきです。
 
しかし、現実は厳しい。特に仕事をしているときは近づくどころか離れて行くばかりで、髪を伸ばしたり、パンツ派からスカート、ワンピース派になったのですが、フェミニン度はあがりません。主人とも話した結果、無理、なれないものはなれない、生まれ持ったものだよ。と、昨日のお昼に結論を出しました笑

しかし…その日の午後撮れた奇跡の一枚。そこに写ってたのは理想のイメージの自分。奇跡とは言え、自分なわけで(ちょっと気持ち悪いが)プリントアウトして持ち歩きつつ、イメージを忘れないようにすれば、(しかも通常バージョンの写りの写真も一緒に持ち歩けばモチベーション倍増かもとか思いつつ)言葉遣いとか立ち居振る舞いとか気をつけられるかもしれないなんて思いました。
 
でも、やっぱりそう簡単にはいかないよねと思っていた本日、着ていったらいいことがある、につられて浴衣を着たところ。下駄も持ってなかったのでガンディーサンダルで代用し、和服に合うバッグも無く、動機も着方も美しさとは程遠いものでしたが、「私が求めていたものはこれだった」と思いました。
 
浴衣を着ると、動作がすごく丁寧になります。歩き方も。さらに話し方も。いつもだったら、iPhoneを触りながら歩いてしまいますが、これは似合わない美しくないからやめておこうと。帯のおかげで姿勢もよくなります。着るだけで。なんて素晴らしいのでしょう。
 
もちろん、それでも普段の自分はでてきて、はんなりじゃないこともしちゃったし、今も気づけばあぐらかいてこの文章書いてたので姿勢を正したところですが…

浴衣は素晴らしいです。和服ってすごいですね。

暑すぎるときは難しいけれど、出来るだけ家でも着たいと思いました。ちょっと子供っぽい方柄だけれど、普段きてもいい浴衣が一枚あります。下駄ももしかしたら今ならセールで買えるのかな?和のバッグも。楽しくなってきました。着物はハードルが高いししまう場所もないけれど、いつか…と思います。和服の力をかりて、素敵な女性を目指したいです。
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私はこの3ヶ月くらい、人生で初めて休暇をとったと思う。それ以前は無職だったり、学校に行っていなくて、何もしていない、一見休みのような状態でも苦しくて苦しくてしょうがなかった。その期間がどれだけ長くても慣れることはなく、ずっと苦しかった。流れない水が腐るかのように停滞し体も心も腐敗して行くのを、あがきながらもどうすることも出来ず、自分も世界も嫌悪して。

レベル2の小淵沢合宿に行って、大きな重りが一つとれた。そのあとはどんどん身軽さが加速して行ったように思う。身軽になれば心も体も動けるようになって、動ければ失敗もして、それが大きな経験になった。身体だけ動けていても心ががんじがらめなら、失敗さえ、本質的には経験できずにいたんだと今ならわかる。

こうなってみると、腐って行くことをどうしようもできずにいた頃の自分が、どれだけあがいていたのか良くわかる。

──いや、私は腐ってなんか無かった。どんな場所にいても私はあがくのをやめなかったから。一番辛い時、私は誰にもすがらなかった。自分で治そうと決めてここまできたんだ。

それが良くわかったのは、自分の指針とするもの以外に触れてみてから。つまり失敗を経験してから。上ばかり見て、私はまだまだ全然ダメだと思っていたけれど、そうじゃなかった。私はちゃんと、自分で自分を助けてきたし、ちゃんと治して、自分で闇の中から這い出てきたことが良くわかった。

精神的に依存して、他者に助けてもらおうという気持ちがあれば、それがどんなものであっても、自分を救うことはできない。主体性がいかに大切か。不登校でも、無職でも、社会的にどんなに認められなくても、自分の人生はすべて自分の責任だと思いながら生きていれば、必ず自分で自分を救えると思う。

私はマクロビオティックに携わりながら、マクロビオティックの是非についてずっと考えてきた。素晴らしいものだという思いはずっと変わらないが、同時に、間違った方法論で失敗する人もたくさん見てきた。間違わないように学ぶ事ができる場所が少なく、さらに細やかにやらなければ病気を治せないのなら、そこに難しさがあるのなら、そもそもマクロビオティックは病気を治すことができると言うことができるのだろうか、と。誰にでもできて初めて、そう言うことができるのではないかと思っていた。

しかしこれだけ複雑化し、しかも、わかりにくくコントロールされた世の中で、心身共に健全でいることは恐ろしく難しい。ものすごく、難しい。そんな中で主体的になれていない状況でさえも、健全さに近づいて行くことが可能な場合が多いという時点で、どれだけクシマクロビオティックが稀有なものか。難しいから、誰にでもできないからマクロビオティックはいいものと言えないのではないか、という考え方は間違っていたと思う。

そして、何よりはっきりとわかったのは、マクロビオティックで失敗する人はみんな同じなのだ。主体性がない。彼らは、「何も知らずに、動物性食品や白砂糖や添加物などの化学物質を摂取する人たちと、自分とはぜんぜん違うのだ」と思いながら、主体性を欠いている限り、全く同じということに気づいていない。逆に何を食べていても、主体性があれば、それは本質的にはマクロビオティックだ。

マクロビオティックを勉強する人の多くが目にし耳にし最初に習うノンクレド。その意味を本当に理解している人がどれほどいるだろうか。

「ノンクレド」

それは別の言い方をすれば、「奴隷ではない」という事だと思う。肉食の奴隷でもなく、スナック菓子の奴隷でもなく、お酒の奴隷でもなく、玄米菜食の奴隷でもない。狂わされた欲求の中で、何も知らず何も感じず、食べたいから食べるのは、当然ながら奴隷だが、そうじゃない場合は食べたいから食べる(私は食べるという選択をする)でいいはずなのに、言い訳をしながら食べた瞬間、それもまた、奴隷だ。

私はマクロビオティックの先生になりたいと思っていたけれど、玄米菜食の方法論を教えたいわけじゃなかった。でも、何を教えたいのかはっきり説明することができなかった。でも、今はそれができる気がする。

主体的であること、それが自由であるということ。そしてそのための大いなる助けと、指針になるたくさんの経験を与えてくれるのがマクロビオティックの実践だと。そしていずれは、そのゴールが何なのかを。それを伝えることができる先生になりたい。

不登校や、引きこもりや、無職で苦しかった期間も、めちゃくちゃ仕事をした期間も、重りがとれて、完全に休暇といえる休暇を、人生で初めての休暇をとったこの3ヶ月ほどの期間も、全部そこに繋がっているように思える。だから私は、これは自分の役割だと思う。

99%の人たちとの境目の入り口で、伝えたい。私はそこに立っていたい。本質を伝えられる、指針とゴールを伝えられる翻訳者でありたい。翻訳者はどちらも知っていなければなれない。どちらかだけの人はたくさんいる。それはそれでいいんだ。それがその人たちの役割。私は私の役割を。





 
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