祈りの水奏 -inorinosuisou-


inorinoは学生時代の課題で作ったブランド名です。祈の”言葉”とか祈の”気持ち”の「祈の」 名詞として何か言葉を作ろうとした時に、意味も響きも美しくて、カタカナ、ローマ字の字面も美しいところからこの言葉ができました。私は祈るという動詞が好きでした。その言葉の存在そのものが。祈りというのはいわゆるお祈りだけではなく他者へのポジティブな集中力ではないかと思います。だからいろんな形の祈りがある。水槽は好きなはずと言われてずっとピンとこなかったもの。しかしいわゆる四角いそれでは無く、アンティークの大きな丸いガラスの水槽を見た時に、たしかに私はこれが好きだと思いました。知らないからこその誤解、気づいたら心底惹かれてしまう程の魅力。マクロビオティックや真理に触れるものたちはそういうものという気がします。いつか自分のプロジェクトの名前にしたいと思っていたinorinoと私にとってのパラダイムシフトの象徴の水槽、奏でるという字をあてて。

2012年12月

『エネルギー』

引きこもって、最小限の生活をしていても部屋は散らかっていく。
まともに生活しようものなら、一回料理しただけでたくさん洗い物が出てしまうし、お弁当箱も毎日洗わなきゃいけない。

朝、洋服を選べば、クローゼットに戻す時間のなかった洋服が散乱。 洗濯すれば干さなきゃだし乾いたら取り込んでたたまなきゃいけなくて。たたまずにベッドに乗っけていってたら寝るとこなくなるし。 毎日かたづけないと、2日で足の踏み場なくなる、流しなんて一日で汚くなる。なんて大変なんだ普通の生活。

こんなことこれから先死ぬまで続けるのか? めんどくさすぎる。 楽したい。消えてもいいんですけど。 もしくは毎日毛布にくるまってすごしたい。

…と思う。落ち込んで無気力の時は。

でも、生きてればいいことも素敵なこともたくさんある。 大切な人もいる。 なので、頑張って生きようと思います。


    このエントリーをはてなブックマークに追加

先程のTwitterまとめ。この感覚周辺の色んな事を、よく考える。私は基本的に肉を食べないが、肉食の様々な弊害を理解し、いろんな主張をしている人々に対して必ずしも(感覚的な意味で)共感はしない。だけど食事に気を使っていなくても気持ちが通じたりする人がいる。

実家の犬の介護をしている時、この子は自分で食べ物を選ぶことはできないんだなぁと実感した。与えられたものを食べる人生。だけど彼女はとても幸福そうだ。そして多くのものを私達家族に与えてくれた。野生動物だってそう。選べない。なにより人間だって世界中の多くの人がそうであると気づく。それはつまり食べ物というのは人生の本質に直接的には関わらないのではないかということ。

だからといって私は一般的な食事をしようと思うわけではない。 できるだけちゃんと作られたものを食べるしマクロビオティックを勉強して行きたい。そして自分の体を少しでも良くしたいと思う。痛めつけてきた体を癒したいと思う。それは私の選択。

「肉食が環境汚染の主原因になっている」「肉食がたくさんの病気を生んでいる」「チョコレートは児童労働、搾取で成り立っている」「ダウンもウールも食肉も残酷な動物の死によって成り立っている」その他にもたくさん、たくさん。食べ物だけではない。私たちはたくさんの動物と人間を殺しながら生きている。その事実を余りにも多くの人が知らない。だけど同時に”事実”でありながら”真実”ではないとも思う。

牛乳は体にいいと信じて飲み続けている人。それはその人が牛乳と乳製品の多くの害を知らないからだろうか。疑問を持たないという選択の結果ではないだろうか。ほとんどの人が全く知らないわけではない。一度や二度、もしくはそれ以上、あらゆる食べ物、食べ物以外のものでも良くないとされる話を聞いたことがあるはずだ。そして、そんなはずがないと思ったり、食べたいから知りたくないと思ったり、それに対して流される反対意見を鵜呑みにしたりもする。情報が一切届かない人もいるだろう、ただただ信じて自分の体を痛めてしまう人もいるだろう。もしくは子供の体を。でももしそこに、一片のエゴもなく愛情しかなければ、その食べ物は本質的にその子供の人生に影響を与えるだろうか。

では、疑問を持たないことが、自分で知ろうとしないのが悪なのだろうか。害があると知っていても、もしくは弱者からの搾取で成り立っていると知ってても選択する場合もある。それは悪として糾弾されるべきことなのだろうか。

こんなことを考えているといつも思い出すのが小さい頃に読んだキリストの漫画伝記のある描写。罪を犯した女の人がいて、その女を石で打ってもいいかと聞かれたキリストは打ってもいいと答える。しかしその後にこう続ける「その女を石で打てるのは生まれてから一度も罪を犯したことない者だけだ」そして結局その女を石で打てるものは居なかった。 小さい頃はなんとなくキリストが正しいのかなって思ったけど、よく分からなかった。じゃあ人を殺したりいじめたりする人を罰することはできないのかな。もう少し大きくなってからもそんな疑問を持ち、そしてずっと心に残り続けた。

今はその意味を自分なりに解釈することができる。例えばハーゲンダッツを食べている人に、それを食べることはパレスチナ人を虐殺しているのと同じだと糾弾しながらスターバックスのコーヒーを飲んでいる、なんてこと。例えばフォアグラを食べている人に対して批判的な気持ちで心を満たし、その作られ方の残虐性を伝えながらダウンジャケットを着ているなんてこと。そんな人いるわけない?じゃあ反原発を叫びながら、ウールのセーターを着て肉を食べる人はどうだろう。タバコを吸う人を批判しながら、発泡酒を飲んでいる人はどうだろう。

同じ興味の範囲の中なら自分や他人や環境を傷つけない選択をすることは可能かもしれない。でも全てを知っている人はいない。私たちはほとんどのことを知らない。人は自分の知っている範囲のことを、自分の経験からくる思い込みで判断し選択している。だから他人の選択を批判することはできない。キリストの言葉はそういう意味を含んでいるんじゃないだろうか。他人に対して、外の世界に対して何かを要求したり批判することはできないんだと。

私は結局は自分なんだと思う。大切なのは。どこまで行っても自分だけ。自分の心と一瞬一瞬のあり方だけが大切。

そう思っていても、他人を批判する気持ちはしょっちゅう湧いてきたりする。でも、いろんなことが重なってそうしない自分に少しずつ変わっていっていることを体験している。全部自分次第だって、他人のせいにしない、外の出来事のせいにしないと決めた時から、世界は変わっていっているんじゃないかと思う。

    このエントリーをはてなブックマークに追加

warmerwarmer高橋さんが教えてくれた「農法はその人の生き方そのものだから僕はどんな農法も否定しない」という言葉が心に残り続けてる。

私は自分がいいと思わないものをいいと言うのは嘘になるから…というと良い子ちゃんか。もとい、好きじゃないものを褒めることはできなかった。変なこだわりみたいな。

でも、その人が選んだもの、作ったもの、言葉、全てがその人の人生そのものだ。良し悪しでもなく自分の好みかどうかも関係ない。好きじゃないものを好みだと言ったらそれは嘘だけど、良いですね素敵ですねと肯定することはその人を受け入れているという、ただそれだけのこと。

言えない時はむしろ心を点検したいと思った。 心の師匠みたいな私の大好きな恩人はよく「いいじゃない」って言ってくれるんだけど、そういうことだったのかもしれない。自分のオールウェルカムに足りない部分に気がつけたような気がする。

2012.12.14 Twitterより。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

作家と言えば小説家だと長いこと思っていましたが、この10年くらいで自分の手で何かを作って売っている人という認識に変わりました。個展や市でそういった方々を目にする機会が増えていったからだと思います。

私は本当に素直にいとも簡単に、学校教育やテレビなどに影響され、良いと言われているもの、支持されているものが素晴らしく、そうじゃないものを差別する意識を自分の中に育てていた人間です。もちろん若者らしく?ひねくれてもいたので、わかりやすく人気のあるもの、例えばロゴマークのついた服などは嫌悪の対象にしてはいましたが。しかし同時に、そんなものは見たこともないという顔をしながら、学歴コンプレックスに始まり、差別意識に支配されていたのです。

ですから初めて作家さん達とその作品を見たとき、あまり良い印象は持たなかったと記憶しています。「よくこんな素人っぽい商品を」と思ったこともあります。逆に自分の好みにあったもの、完成度の高いものを作る作家さんに出会ったときは心のなかで大絶賛。そして場合によっては自分と比べて落ち込むこともありました。良いと思ったものは称賛し、もしくは落ち込み、そうじゃないものに対しては心のなかでとことん冷たくなる。 もちろん、作品は価格をつけたら商品です。比べられ選ばれ売れていくのだから◯がついたり☓がつくのも当然のことです。「全部いいと思います。全部買います」そんなことありえません。

でもね。だからといって☓だと思った商品だけではなく作った人にまでも、センス無い、好きじゃない、ありえないと否定の気持ちで心を満たしてしまうのはどうでしょう。そんな人正直嫌なんですが。私という人間はそんなやつなのでありました。

しかし最近、反省とともに変化が起こり始めています。ものを作る人達がどんどん進化しているのを目の当たりにすることによって。 私は冷たい人間ですし、いとも簡単に差別する上に面倒くさがりの出不精なので、良くないと思った作家さんは当然としても、好きだと思った作家さんさえ2年、3年ぶりに見に行きます。その「2年ぶり3年ぶり」にこの1年多く遭遇しました。仕事をやめたのをきっかけにそういった場所に足を運ぶ機会が増えたからです。

そしたら。
びっくりするくらい進化している。完成度もバリエーションも。

今まで…作家さんを見ながら感じていた気持ちで一番多くを占めていた中学生のような感情を、具体的に言語化してみるとこうなります。

「私がこの人と同じくらいの時間(経験という意味での)作ることに費やすことが出来ればはるかにもっといいものが作れる。なのに私にはそれをすることができない。自分の思う、そのはるかにいいものと同等のものを作ることができないのであれば私は自分が作ったものを売るということは絶対にしない。だから私には永遠に叶わないことだ」

私は作家になりたいわけではありません。自分の作ったものを売って生活したいとは思いません。だからこんな感情を持つことも不思議といえば不思議なのですが、かつてものを作ることを学んでいたことがそういった感情を生むのでしょうか…? さて、生まれてしまったこの感情。まとめると『やればできるのに』と『あきらめ』です。中学生と評したのはその辺り。

ココでやっと話を戻します。 進化してゆく作家さんたちはその”あきらめ”に対して強烈に揺さぶりをかけてきました。過去、否定で心を満たした自分にも。

自分の思うハードルを超えられなくても、その先に、ずっと先でも、近づいていけるのであれば続けていってもいい、そしてその過程を表に出していっても許されるんだと。許す許さないの話ではないはずなのに私の意識はそうでした。私は自分が他人を否定する人間だからこそ、否定されることをとても恐れていて、────それはやってみようとすら思わない、選択をしたという意識もないまま、なにもしないことを選ぶことにつながっていました。

そう気づいてから否定で心を満たすことはなくなりつつあります。この作品を買おうとは思わない。以上、です。完璧じゃない自分を恥ずかしいと思わなくていいし、完璧じゃなくていいのだから大げさな決意を持って何かを始める必要もないし、やろうと思ったらやればいい。

それがこのブログにつながりました。だから、大げさな決意は伴ってないけれど(ここでは文章として)良くなっていくこと、自分の思うハードルを超えられることを目指していくことが大前提です。
ただし。

スパンはながく。ながーく。



    このエントリーをはてなブックマークに追加

このページのトップヘ